茜をせめないでください。間違っていようとも、あれは、あれなりの真情で私を愛しているのですから。……嘘だったということは、今日はじめてわかりましたが、茜から、あなたが東京へ行かれたと聞くと、私は闇夜《やみよ》の中でとつぜん光明を失ったような気持になって、また決心がにぶり、茜にすすめられて、今日のような不埓《ふらち》なまねをいたしましたが、でも、もう大丈夫です。私の決心はぐらつきません。贖罪《しょくざい》をして新しく生まれ変わったら、その身装《みな》りをお目にかけに行きます。……キャラコさん、私はあなたにひどい嘘をつきましたが、どうぞ、ゆるしてください。あなたにだけは、拐帯《かいたい》犯人だということを知られたくなかった。ここで語り合ったあの姿で、あなたの記憶にとどめて置きたかったからです」
 プツンと言葉を切ると、蘆の間でゆるゆると身体を起こしながら、
「……さあ、ずいぶんしゃべった。……では、そろそろ出かけることにしましょう。……いつか、私がそういいましたね。なんでもなくしてくださったあなたの親切が、私にどんなたいへんな影響をあたえたか、いつか必ずわかるときが来るって。……つまり、これが、その結果《レジュルタ》です」

 キャラコさんは、発動機艇《モーター・ボート》の桟橋まで佐伯氏を送って行った。
 発動機艇《モーター・ボート》は渚を離れた。
 佐伯氏は船尾に坐って、ゆるゆると木笛《フリュート》を吹いている。
 岸では、キャラコさんが長い蘆を振ってわかれの挨拶をする。
 発動機艇《モーター・ボート》の影が見えなくなっても、木笛《フリュート》の音はまだきこえていた。
 次の日のひるごろ、キャラコさんと茜さんは、長尾《ながお》峠の頂上に立っていた。眼のしたに、蘆《あし》の湖《こ》が、古鏡のように、にぶく光っている。
 キャラコさんは、ここから御殿場《ごてんば》のほうへくだり、茜さんは、仙石原《せんごくばら》のほうへおりて、それから東京へ職業《しごと》をさがしに行くのである。
 いよいよ別れる時がくると、茜さんが、いった。
「兄は、ほんとうにあなたを愛していたのではないでしょうか。あなたが立上《たてがみ》氏を呼んだと聞くとその夜、兄は夜半《よなか》にそっと起きあがって、稀塩酸《きえんさん》でじぶんの眼をつぶそうとしているのです。必死なようすでしたわ。……あなたにだけは嘘つきだと思われたくなかったのでしょう。……これだけ申しあげたら、この間、あたしがなぜあんなひどいことをいったか、わかってくださるでしょう。……ほんとうに、ごめんなさいね。……でも、あたしにすれば、あなたより、やはり兄の眼のほうが大切だったのですから……」
 二人は、右と左にわかれた。互いの姿が見えなくなるまで、手をふりながら。



底本:「久生十蘭全集 7[#「7」はローマ数字、1−13−27]」三一書房
   1970(昭和45)年5月31日第1版第1刷発行
   1978(昭和53)年1月31日第1版第3刷発行
初出:「新青年」博文館
   1939(昭和14)年3月号
※初出時の副題は、「葦と木笛」です。
※底本では副題に、「蘆と木笛《フリュート》」とルビがついています。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:門田裕志、小林繁雄
2008年12月7日作成
青空文庫作成ファイル:
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