いかにも心ない仕業《しわざ》だと思ったが、死んだ気になって、切り出してみた。
「佐伯さん、あたくし、たったひとつ、おたずねしたいことがありますの」
佐伯氏は、ビクッとしたように、キャラコさんのほうへ顔をふり向けて、
「あらたまって、どうしたんです。……ききたいって、どんなこと?」
「あなたのお気にさわることなんですから、はじめに、おわびしておきますわ。……あたしがおたずねしたいのは、あなたの眼はどうしても絶望なのかどうかということなの。……まだ、いくぶんでも希望があるのでしょうか」
キャラコさんが、そうたずねると、佐伯氏は、急にキュッと頬《ほほ》の肉を痙攣《ひきつ》らせ、なんともいえない暗い顔をしておし黙ってしまった。
キャラコさんは、どうしていいかわからなくなってしまった。うなだれて、唇だけを動かして、ごめんなさい、とつぶやいた。
佐伯氏は、ふいに、渋い微笑をうかべて、
「いま、ごめんなさい、といいましたね。よく聞えましたよ。……あやまることなんかいりません、なんでもないことです。……私が眼のことに触れたがらないのは、じつは、どうしてもあきらめきれないことがあるからなんです。…私のは、単性視神経萎縮《アトロフィア・ネルヴィ・オプチジ》という厄介《やっかい》な眼病で、手榴弾《しゅりゅうだん》の破片で頭蓋底を骨折したために、起こったもので、日本では治癒《ちゆ》できませんが、ミュンヘン大学のヘルムショルツ博士のところへ行けば必ず癒《なお》してもらえるあてがあるのです。……しかし、私にはそんな金もないし……」
ここまでいいかけると、とつぜんいらいらした口調で、
「もう、よしましょう。この話は」
と、クルリとキャラコさんに背中を向けてしまった。
キャラコさんは、宿へ帰ると、秋作氏の気付《きづけ》にして、ヘルムショルツ先生の高弟に宛てて長い長い手紙を書いた。
……そういうわけですから、この手紙を見次第、鞄《かばん》を持って飛んで来て、ちょうだい。これは、あたしの、めいれいよ。と結んだ。日記には、こんなふうに書きつけた。
[#ここから1字下げ]
キャラコの信念
佐伯氏の眼は、必ず見えるようになる!
[#ここで字下げ終わり]
一日おいて次の日、立上氏から、ミヨウゴニチアサユクという電報が来た。
キャラコさんは、その電報を持っていつものところへ駆けて行った。
木笛《フリュート》は蘆の中に置いてあるが、佐伯氏の姿は見えない。四時ごろまで待っていたがやって来ない。もしや水ぎわにでもいるのかとそのほうを見廻したが、渚《なぎさ》には人の影らしいものもなかった。
キャラコさんは手帳の紙に、
佐伯さま。明後日《あさって》のあさ、ここへ、ヘルムショルツ先生の高弟が来ます。どうぞ、あなたの眼をふたつ貸してちょうだい。
と、走り書きをし、それを電報用紙の中へ細長くたたみ込み、その表に、(茜《あかね》さま、これを読んでさしあげてくださいませ)と、書いて、それを木笛《フリュート》に結びつけた。
それから、三十分ほどすると、疏水《そすい》の向う側から佐伯氏がやって来た。
木笛《フリュート》のあるあたりに顔を向けて、ぼんやりと立っていたが、ツと手を伸ばして手紙をほどきとるとむこうを向いて、立ったままでそれを読み出した。
しばらくののち、手紙を持った手がだらりと下へ垂れる。それから、左手をいそいで眼のほうへ持って行った。
佐伯氏は、こちらへ背中を向けたままいつまでも立っている。佐伯氏の手の中で、キャラコさんの手紙がヒラヒラと風にひるがえっていた。
五
次の朝、廊下の窓のそばの籐椅子《とういす》に掛けて本を読んでいると、廊下の向うのはしから茜《あかね》さんがひどくまっすぐな姿勢でこちらへちかづいて来た。
ウールのレーンコートを着て、腕に外套をひっかけている。瘠《や》せているので、ほんとうの身丈《みのたけ》よりずっと長身に見える。面《おも》ざしは冷たすぎるほど端正《たんせい》で、象牙のような冴《さ》えかえった色をしていた。
廿二三だと思われるのに、どこか、ひどく老《ふ》けたところがあって、娘がいきなり大人になったような妙な感じをあたえる。
すらりと、キャラコさんのそばに立って、
「いいお天気ね。発動機艇《モーター・ボート》で箱根町のほうへ出かけてみません? すこし、お話したいこともあるのよ」
否応いわせない、おしつけるような調子があった。
キャラコさんは、きのうの返事がきけるのだと思って、急いで自分の部屋へ行って帽子と外套を持ってきた。
二人は桟橋《さんばし》まで歩いて行ってそこで、発動機艇《モーター・ボート》に乗った。
とりわけ、きょうは陽ざしが熱く、湖の面《おもて》はガラスのようにきらめいて、深
前へ
次へ
全12ページ中7ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
久生 十蘭 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング