》についてゆっくりと梓さんのほうへ近づいて行き、スキーをぬいで、黙ってそのそばに並んで坐った。
 梓さんは、キャラコさんがやって来たことに気がつかないように、振り向いても見ようとしない。吸いとられるような眼つきで、薄氷《うすごおり》の張った池の面《おもて》をジッと見つめている。頬も唇もすき透るように蒼くなって、まるで蝋人形のようなようすをしていた。
 キャラコさんは、なんともつかぬ深いため息をつく。
 いいたい事はいろいろあるし、どうすれば慰めることができるかよく知っていたが、そんなことは、まるっきり必要がないように思われ出してきた。こうして黙ってそばに坐ってさえいれば、それで、充分心が通ずるのだと思った。
 月が、西へ廻り、雪の上の影が、ゆっくりと池の水ぎわのほうへ移って行く。
 永久とも思われるような長い時間だった。二人はひとことも口をきかずに、ひっそりと雪の上に坐っていた。
 キャラコさんは、もう山小屋《ヒュッテ》のことも、森川夫人のことも、芳衛さんたちのことも、なにひとつほかのことは考えていなかった。雪の冷たさも、夜の寒さも、まるっきり感じなかった。ただ梓さんが気の毒で、そのことだけでいっぱいだった。
(いま、どんな悲しい思いが梓さんのこころの中にあるのだろう。……でも、梓さんは、ひとりでいるのではない。こうして、あたしが、そばに坐っている……)
 このことだけは、いくぶんでも梓さんを慰めるにちがいないと思った。
 ほのかな夜明けのけはいがして、林の中で小鳥が、チチと鳴きはじめた。
 キャラコさんは、ふと気がついて、ルックザックから魔法瓶《テルモス》を取り出し、熱い紅茶を茶碗に注《つ》いで、それを梓さんのほうへ押しやった。
 梓さんは、チラと眸《ひとみ》をあげ、大きな深い眼でキャラコさんの顔を眺めると、おずおずと茶碗のほうへ手を伸ばしてそれをとりあげた。両手の中に茶碗をはさんで、しばらく手を温めてから、そっと口のほうへ持って行った。
 キャラコさんが、低い声でたずねた。
「美味《おい》しくて?」
 梓さんが、眼を伏せたまま、コックリと、うなずいた。
「……やはり、生きていてよかったわ。……なんであるにしろ……」
 そういって、飲みかけた茶碗を雪の上に置くと、両手を顔へあてて劇《はげ》しく泣き出した。



底本:「久生十蘭全集 7[#「7」はローマ数字、1−
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