りに胸をふるわせて、叫ぶような声で、いった。
「房枝は、あなたに捨てられた女よ」
 チャーミングさんは、静かに手でおさえながら、
「……ツルゲーネフの小説にありますね。……広い世の中へ出て行ったら、こんなちっぽけな田舎娘とくらべものにならぬような美しいやさしい女が大勢いると。……その男は、すがりつくようにする娘をふり捨てて都会へ出て行った。……しかし、白髪《しらが》になるまで、その田舎娘ほどやさしい、そして真実な女にめぐり逢うことができなかった。……この、後悔ほどつらく悲しいものはありません。これは、放蕩児が受けなければならぬ劫罪《ごうざい》なのです。……私は、放蕩に疲れきったあとで、ようやく、真実な愛のねうちをさとったのでした。……私はむかしのひとの俤を探して歩きました。……それから、もう何年になるでしょう。……そして、この期《ご》になって、思いがけなく落葉松にかこまれた池のそばでその俤に出逢ったのです。……むかしのあのひとのように清らかで、むかしのあのひとに生き写しでした。……夢でなければ、それこそ不思議だと、その時、私はそう思いました」
 なんという不思議な男だろう。ものうげな、しみじみとしたその声をきいていると、ひき込まれて思わず夢心地になる。
 森川夫人は、いっしんに気をとりなおして、
「さあ、もうずいぶんしゃべりましたね。そのくらいにして置いてください。……あなたは、梓があたしの娘だとわかったら、あの娘からだまって手をひいてくださるでしょうね。……あの娘の幸福を思ったら、どうぞ、黙ってここから出て行って、二度と梓の前に現われないでください」
 チャーミングさんは、悲しそうに首を振って、
「でも、私に別れたら、梓さんはきっと死んでしまうでしょう」
 森川夫人の頭のすみを、あわれに取り乱した梓さんの姿がチラとよぎった。やるせない涙がクッと胸《むな》さきにつっかけて来た。梓は、ほんとうに死ぬかも知れない。妹もあの時そうだった。いよいよ最後の決心をしなければならない時が来たと思った。
(たとえ、どんなひどい嘘をついても!)
 森川夫人は、微笑しながら、
「あなたは、ほんとうにあの娘を愛してらっしゃいますか」
「あなたは、何んということをおたずねになるのです」
「そんなら、……もし、そうなら、あなたは、あの娘を死なせるようなことはなさらないでしょうね」
「いのちが
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