求婚にたいして、あなた、貧乏だから、いや、と、にべもない返事をしたのは、決して本心ではなかったのだ。何もかもあきらめて、進んで自分を『糶《オークション》』に出したのにちがいない。
 自分本意で、骨の髄まで浅薄な娘だとばかり思っていた槇子の胸に、こんなしおらしいたましいがひそんでいたということは、キャラコさんにとっては意外だった。意地っぱりで、一旦こうと決心したら容易《たやす》く自己を表わさない冷静な槇子が、自分の心をのぞかれるようなあんな狂態を演じたのを見ても、槇子がどんなに苦しんでいたかよくわかる。それを察してあげることができなかったのは、やはり、じぶんが未熟だからに相違ない。キャラコさんは、心のうちで詫びた。
「マキちゃん、ゆるして、ちょうだい」
 それにしても、秋作氏は槇子のこの美しい心根《こころね》を知っているかしら。

 夜の十時ごろになって、秋作さんが飛んで来た。
 槇子が溺れかけたことより、自分の部屋の扉《ドア》の下にすべり込ませてあったものを見て、驚いて飛んで来たのである。それは、西洋封筒に入れた一枚の紅葉《もみじ》で、封筒の表にはきれいな字で日附が書いてあった。秋作氏と二人きりで高尾山へ行った日の日附である。
『社交室』では、また新しい話題でわきかえっていた。
 ワニ君連を代表して、花束を持ってお見舞いに来たアシ君が、槇子の(秋作さん、秋作さん)を聞いてしまって、これを『社交室』へ急報した。
 ポン君が、いった。
「おかしいと思ったよ。いくら槇子が気紛れだって、あんな時化《しけ》にボートを漕ぎ出すなんてのは、ちとムイミだからな。秋作さんへの心中立てに、初めから自殺するつもりだったんだ」
「なるほど、そういうわけか」
 と、ワニ君がためいきをついた。
「どうも、時世が変って来たな」
 ところへ、ホテルの支配人がやって来て、山本氏に召集状が来、明朝応召されるので、山田氏の発起でホテルと共同の歓送晩餐会を催すことになったから奮《ふる》ってご出席願いたいといった。

 さすがに、一人も欠けるものがなかった。槇子だけはまだ床を離れられないのでその席に連らならなかった。
 一同が席について待っていると、すこし遅れて山本氏が入って来た。いままでのみすぼらしい服をぬぎすててチェビアットの瀟洒《しょうしゃ》たる服を着、無精髯を剃り落として、髪を綺麗に撫でつけ、頬を艶々《つやつや》と光らしているところを見ると、これがよぼよぼした昨日《きのう》までの老人だとは、どうしても思われない。ホテル第一の伊達者《ダンディ》の越智氏も、その前へ出ると、急に影がうすくなったような工合だった。
 山田氏が一同を代表して祝辞を述べると、山本氏が起立して挨拶をかえした。
「私はこの四十五年の半生の大部分を外国で暮らし、何ひとつとりたてて日本のために尽すことができませんでしたが、幸い、このたび召集され、私の一身を日本へ捧げ、最も崇高な方法で自分の生涯を完結させる機会にめぐまれたことを心から歓喜しております。……この喜悦の情はどれだけ深いものか、長らく日本を離れていた私のようなものでなければ、恐らくおわかりになることはできまいと存じます。
 ……私のご挨拶はこれで終りますが、この席を利用して、ちょっと一|言《ごん》申し述べさせていただきたい事がございます。……私は応召して戦場へまいります以上、もとより生還を期してはおりません……ご存知の方もありましょうが、私は親戚も身寄りも持っておりませんので、私の全財産、……千二百万|弗《ドル》、すなわち、四千万円を、この席におられる方でこれを最も有意義にお使いくださるであろうと思われる人格《ひと》に御相続願うことにしました」
 山本氏が、こういった時の、一座の恐慌といったらなかった。
 越智氏は気が遠くなるような眼つきをし、葦《あし》君はその細い長い脚をブルブルと震わせた。
 山本氏はそんなことには頓着なく、ほのかな口調で、
「私は十六の年にアメリカへ渡り、あらゆる職業に従って黒人《ニグロ》のように働きつづけましたが、どんな仕事にも成功しませんでした。……しかし、その後、ある奇縁によって発奮し、カルフォルニアで香水原料の花卉《かき》栽培に従事し、飽き飽きするほどの財産をつくりました。……私の今日《こんにち》をなさしめた奇縁というのはどのようなものだったかと申しますと、私が失意落胆してサンタ・フェの田舎を放浪していますとき、私に貯金の二十|弗《ドル》をめぐみ、『冬の円居《まどい》』という日本の小学唱歌を唄って元気をつけてくれた、十九歳の日本の一少女の親切だったのです」
 山本氏は、感慨を催したらしく、ちょっと沈黙したのち、
「……私が多少の成功をいたしました時、早速、サンタ・フェにまいりまして、その少女をたずねましたが
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