退屈してしまった。それで、暮からしかけになっていた編物をとりだしてせっせとやっていると、叔母が忍び足でやってきて、小さな声でしかりつけた。
「あんまり、みっともないことは、しないでちょうだい」
編物をするのが、なぜみっともないのか剛子にはわからなかったが、素直に叔母の意見に服従した。しかし、どうにもてもちぶさたでしようがないので、図書室からメリメの『コロンバ』を持ちだし、主人公のネヴィール嬢に興味を感じて、すこし熱くなって夢中になって読んでいると、またいつの間にか叔母がうしろへきて、たいへん優雅なしかたで、剛子の手のなかから本をとりあげてしまった。
「どうして、あなたは、そう、こせこせするんでしょう。お嬢さまらしくおっとりしていることはできないの。育ちの悪いのを、あまり、ひとに見られないようにしてちょうだい。あたしたちに恥をかかせたくないと思ったら」
剛子は、これにも素直にうなずいた。読書をするのがなぜお嬢さんらしくないんですか、などとききかえしはしなかった。たぶん、皮肉にきこえるだろうと思ったから……。相手が叔母でなくとも、こんなちいさなことで争う気にはなれないのである。
叔母が図書室を出てゆくと、剛子は、ひくい声で自分にいってきかせた。
「ほんとに、あたし、お嬢さんでなくてよかったわ」
剛子は立ちあがって窓から首をつきだす。樹墻《じゅしょう》を越えてその向うに、川奈ゴルフ・リンクのフェア・ウェイがひろびろとひらけ、ゴルファーが歩きまわっているが指のさきほどに小さく見える。剛子は田園嫌いではないが、どうも、これはすこし退屈な風景である。
心《しん》そこから閉口して、ひとつ、伸びをすると、
「死にそうだわ」
と、つぶやいた。
のびのびと発育した、キッチリと肉のしまった五尺四寸の若々しい肉体が、クッキリと床のうえに影をおとす。胴はほっそりとしているとはいいがたいが、しかし、ミロのヴィーナスのあの健康な腰だ。灰色の単純なデザインのワンピースが、身体《からだ》にそっていかにも自然な線を描きながら垂れさがってる、顔はいつも艶々《つやつや》と光っていて、元気のいい子供のような新鮮な印象をあたえる。口が少し大きすぎる。その大きすぎる口をあいてよく笑う。とりわけそういうとき、剛子は単純で快活に見える。
ところで、沼間夫人は、剛子が大口をあいて笑うのをあまり好いていない。
「笑うのは下等よ。もっとも、あなたのは特別だけど。……口をしめなさい奥歯が風邪をひく」
剛子は、奥歯が風邪をひかぬように、あわてて掌で口をおさえる。
剛子は退役陸軍少将石井長六閣下の末娘で、今年十九になる。しかし、笑ったり跳ねたりしているときは、十七ぐらいにしか見えない。
剛子《つよこ》とは妙な名前だが、これは剛情の剛ではない。質実剛健の剛である。長六閣下は、これからの女性は男のいいなりになるようなヘナヘナではいかん。竹のようにしなやかで、かつ、剛健な意志をもたねばならぬという意見で、それで剛子と名づけた。剛子は父の望みを嘱《しょく》されているのである。
剛子が自分の名をいうと、相手は、かならず聞き違えて、
「ああ、露子さんですか」
という。すると、剛子は、
「つゆではありません、剛よ」
と、丁寧に訂正する。父の希望のこもった大切《だいじ》な名を間違われるのはいやだからだ。つゆ子なんて名は、なにか病み細って、蒼い顔をしてうつむいている女の姿を連想させる。剛子はそんななよなよした女性は嫌いなのである。
剛子には、もうひとつ、「キャラ子さん」という名前がある。
「キャラコ」のキャラは、白檀《びゃくだん》、沈香、伽羅《きゃら》の、あのキャラではない。キャラ子はキャラコ、金巾《かなきん》のキャラコのことである。
剛子がキャラコの下着《シュミーズ》をきているのを従姉妹《いとこ》たちに発見され、それ以来、剛子はキャラ子さんと呼ばれるようになった。
ある日、社交室の満座のなかで、槇子《まきこ》がキャラコの由来を披露したので、みなが腹をかかえて笑い、思いつきのいいのに感服した。
すこし手ざわりの荒い、しゃちこばった、この貧乏な娘にいかにもふさわしい愛称だと思われたからである。それで、だれもかれもがこの愛称で剛子を呼ぶようになった。
剛子はこういう愛称でよばれるのをかくべつ不服には思わない。キャラコの下着《シュミーズ》をきていることを別に恥だとかんがえないからである。垢《あか》じみた絹の下着《シュミーズ》をひきずりまわすよりは、サッパリとして、清潔なキャラコを着ている方がよっぽどましだと思っている。そして、これがまた父の意見でもあったのである。
長六閣下は、いつも、こういう。
「絹ではいかんな。木綿のような女でなくてはいかん」
剛子の一家は、父の光栄
前へ
次へ
全16ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
久生 十蘭 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング