」
『恋人』は手の甲のうえへ垂れさがってくる長すぎる袖を、しょっちゅう気にしてたくしあげながら、
「……わたくしを、汚いやつだの、乞食だのといわないのは、ほんとうにあなただけです。わたくしは、いやしめられることには馴れていますから、なんといわれたって格別気にも止めません。しかし、あなたのご親切は……」
急に眼を伏せて、口ごもり、
「ありがたく思っています。……生涯、忘れませんでしょう」
といって、すこしうるんだ、感謝にみちた眼差しでキャラコさんをみつめた。
キャラコさんは、こんなふうに丁寧な挨拶をされたので、すっかり面くらって、
「あら、あんなことが親切なんでしょうか。……おはよう、ってご挨拶をしたり、二度ばかりダームをしただけでしょう」
「それが親切なのです。……とりわけ、わたくしのようなものにしてくださるときは」
キャラコさんが、笑いだす。
「そんなのが親切なら、いつでも!」
『恋人』は、しばらく沈黙したのち、とつぜん、こんなことをいう。
「ご親切にあまえるようですが、ひとつ、おねがいがあります」
キャラコさんはすこしかんがえてから、キッと口を結んで決意のほどを示しながら、強くうなずいた。
「あたしにできることでしたら、どんな事でも!」
キャラコさんのひどくきまじめな顔を見ると、『恋人』は皮肉とも見える微笑をうかべながら、
「いや、そんなむずかしいことではありません。……わたくしに歌を唄ってきかせていただきたいのです」
「あら、そんなことでしたの。……でも、あたし、まずいのよ。まだ、いちども本式に習ったことがないんですから。……自己流のでたらめなの」
『恋人』は、首をふって、
「どうして!……いま、あそこでうかがっていましたが、あなたのような見事な中音《メディアム》は、日本ではそうざらに聴けるものではありません。……最初は、自分の耳が信じられなかったくらいでした」
キャラコさんは、自分の唄がひとにほめられたことなどはいちどもなかったので、真赤になってしまった。
「おやおや、たいへんだ」
『恋人』は強くうなずいて、
「いえ、ほんとうのことです。実際、めずらしい声をもっていられる」
「では、唄いますわ。その、見事な『中音《メディアム》』で! ……でも、あたしの知っている歌でなくては困るのよ。……どんな歌? ごく新しいタイプの歌?」
「いや、わたくしはモ
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