けでもうんざりなのに、ほら、また、あのきたないやつがはいってきた。……ごめんだわ。おもしろくもねえから、クラブ・ハウスにでも騒ぎに行くんだ」
と、みな一緒にどやどやと出て行ってしまった。
それは、みすぼらしいほどの粗末な服をきた、六十ぐらいの大柄な老人で、髪はまだ半白《はんぱく》だが、顔には八重《やえ》の皺の波がより、意地の悪そうな陰気な眼つきをし、薄い唇のはしにいつも皮肉な微笑をうかべている。
三階の隅の陽あたりのわるい小さな室《へや》にひとりで住んでいて、食事のほかにはめったに降りて来ない。だれも名を知らず、どういう素性の老人なのか、それもまるっきりわからない。
とにかく、不思議な老人である。『社交室』ではこの老人がしばしば問題になった。たぶんホテルの持主の親類かなにかだろう。さもなければ、あんな乞食のような老人をのさばらしておくはずはない。それにしても眼ざわりでしようがないから、支配人にかけあって追っぱらってしまおうということに意見が一致したが、先にたって交渉にゆくものもなく、うやむやになってしまったが、だれもいやがって、この老人が入ってくると、きこえよがしに舌うちしたり、おおげさに眉《まゆ》をしかめたりする。
ところで、剛子は、その老人をみすぼらしいとも思わないし、かくべつ気味がわるいとも思わない。どうしてみながそんなにいやがるのかそのわけがわからない。
剛子には、この老人がなにかたいへんな不幸にあったひとのように考えられ、自分のできることならどんなことでもして慰めてあげたいと思って、老人がサン・ルームの片隅などで淋しそうに坐っているのを見るとやさしく言葉をかけたり、ダームの相手になってやったりした。
すこし陰気だが、話してみると、教養のある奥ゆかしいところがあって、剛子にすれば、社交室のとりとめのない男たちとよりは、この老人と一緒にいるほうがむしろ楽しいくらいだった。
こんなことで、この老人に、いつの間にか、『キャラコさんの恋人』というひとのわるい綽名《あだな》がつけられるようになった。
三
槇子たちの組がおお騒ぎをしながら出て行ったあと、いつの間にか、『キャラコさんの恋人』も猪股氏もいなくなって、広い社交室の中にキャラコと従兄《いとこ》の秋作氏の二人だけがポツンと残されることになった。
部屋のなかは急にヒッソリとなって、
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