ゃないの」
「なんのことだか、ぼくには、わからない」
「ドライヴなんかやめて、家へ帰ろうと言ったら、それでも、渋々、車をかえしたけど、国道の分れ道で中村に会ったら、ハンドルを切って、こんなところへ逃げこんで」
「君が、ハンドルに手をかけて、無理にひんまげたからだ……おかげさまで、車のあたまがめちゃめちゃになってしまった」
「臆病なひとって、切羽詰ると思いきったことをするもんだわね……あたしがハンドルを切ったのは、あなたが中村に突っかけて、轢《ひ》き殺そうとしたからよ」
 愛一郎は、顔をあげてなにか言いかけたが、ものを言うのはムダだというように、がっくりと首をたれた。カオルは腕をまわして、愛一郎の肩を抱くようにしながら、
「あなた、なにか苦しんでいるのね。あたしにうちあけてくれる気はないの? あたしを、敵だなんて思わないで……あたしにできることだったら、どんなにでも、力になってあげますって……愛一郎さん、おこらないでね……あなたのママの古い日記、あたし、読んだわ」
「ちくしょう、ママの部屋へはいりたがるのは、そんなことじゃないかと思っていたんだ」
 愛一郎は、血相をかえてカオルにつかみかかった。カオルは、手ぎわよく愛一郎をおさえつけながら、
「この間、神月の家へ行って、取っ組みあいみたいなことを、したんですって?」
「あっ、神月が言ったんだな」
「あなたが夢中になるのは、死んだママのことしかないんだから、なにがあったんだろうと思って、はいって調べてみたの……なぜ、あたしをママの部屋へ入れたがらないのか、その訳がわかったわ……あんなところに、ママの古い日記を隠してあるなんて、秋川氏も知らないことなのね?」
 愛一郎は、手をふり放して立ちあがると、カオルの肩のあたりを蹴りつけた。
「なんの権利があって、ひとが隠していることを、あばきだそうとするんだ?……おせっかいの、パンスケ」
 カオルは、愛一郎の手をとって、
「まあ、おすわんなさいよ。お話ししましょう」
「パンスケなんていわれて、腹をたてないのか」
「あたし、パンスケよ。あなたたちの聖家族のなかへは、はいれない女なの……ドイツへヴァイオリンの勉強に行っていたとき、戦争で日本から金が来なくなったので、生活費と月謝をかせぎだすために、手っとりばやいバイトをしていた時期があるのよ。あのころ、ベルリンにいた日本人は、みな知ってることなんだから、いまさら、隠しもできないわ」
 愛一郎は、草のなかに坐りこむと、膝に手において、がっくりと首をたれた。
「悪いことを言った。ゆるしてくれるね? カオルさん」
「だから、なんでもないって、言ってるでしょう」
「読んだのは、どういうところだったのかしら?」
「なにもかもよ……あなたのママの過失のことも、あたしのママの過失のことも……あたしにとっても、たいへんな発見だったわ。あたし、山岸の子供でなくて、ほんとうは、神月の子供だったのね」
「あれは、ママの想像でしょう。そんな深いことを、ママが知っているはずは、ないんだから」
「そのことなら、あたしが神月に会って、はっきりさせるわ。あなたが、とやかく言うことはないのよ。それより、ママの古い恋文、飯島の神月の別荘の、暖炉棚の虚《うろ》に放りこんであるって、書いてあったわね。あなたが心配しているのは、そのことなんでしょう。他人のこと気に病《や》むより、そのほうの始末をするほうがいいわ。なんだったら、いっしょに行って捜してあげましょうか。久慈なら、いくらか知ってるから」
 愛一郎が首を振った。
「捜してみたけど、そこには、なかった……ママの手紙は、神月が手もとにおいてあるらしい。ウラニウムの鉱山とかを買うので、その金を、パパに出してもらえるように、ぼくに骨を折ってくれって……」
「そう言って、脅かしているわけなのね。それは、いつごろの話なの?」
「夏のはじめごろの話……ぼくが、うんと言わないと、ママの手紙を、郵便でパパのところへ送りつけるというんだ」
 小道をとざす萱をおし分けながら、中村が谷戸へはいってきた。水を浴びたように、服も靴も、ぐっしょりと濡れていた。ツカツカと愛一郎のそばへ行くと、ドスのきいた声で、中村が叱※[#「口+它」、第3水準1−14−88]《しった》した。
「おい、立て……立って、おれについて来い」

  脇窓

 霧が流れるたびに、勝鬨《かちどき》の可動橋の巨大な鉄骨の側面が、水に洗われるように見えたり隠れたりしている。霧が深いので、毎朝、アパートの窓下の掘割へあがってくるポンポン蒸汽は、きょうはお休みらしい。聖路加病院の鐘が鳴るたびに、運河からカモメが舞いたつ。
 サト子は、窓ぎわの椅子に掛け、灰色の霧に白い筋をひきながら、舞いたち舞いおりるカモメの遊戯を、所在なくながめていたが、そのうち
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