……ねえ、そうなんでしょ?」
「言わなくとも、わかっているだろう。君は、そんな頭の悪いひとじゃ、ないはずだ」
意外に錆《さび》のある声で、愛一郎がこたえた。美術館で泣きだしたときのかぼそい声とは、似てもつかぬものだった。
「あたしの頭のことは、ほうっておいていいの……ごらんなさい、裸足《はだし》なのよ。こんなかっこうで家から追いだそうって言うの?」
「君の靴とボストン・バッグは、車のうしろの|物入れ《トランク》にはいっている」
「ちょっと伺うけど、きょうにかぎって、どうして、そんなにまで、あたしを追いかえしたいの? 訳があるなら、言ってみて」
愛一郎は車のうしろへ行くと、物入れの蓋《ふた》をあけて、靴を持って戻ってきた。
「あなたの、お靴」
カオルは、愛一郎の手を横に払った。靴は愛一郎の手から離れて、草のうえに落ちた。
「あたし、帰るなんて、言ってないわ」
愛一郎はズボンのうしろへ手をやった。カオルが、おしころしたような声で叫んだ。
「あなたの持っているものは、なに? そんなもので、あたしをおどかそうというの?」
「ぼくは意気地なしなのか? やろうと思ったら、人殺しだってなんだって、やれるんだぞ」
愛一郎は、下草のなかにしゃがみこむと、夜目にもそれとわかる飛びだしナイフで、萱《かや》のしげみをめちゃめちゃに切りまくった。
「気ちがい! あなた、ポン中なのね」
愛一郎はナイフをポケットにおさめると、息をきりながら、やりかえした。
「気ちがいってのは、君のことだ。ゆうべも、夜中じゅう、裸足で家のなかを歩きまわっていたね……ママの部屋へはいって、なにをしようというんだ。言うことがあるなら、言ってみろ」
「あなたの言いかたは、あたしがなにをしたか、知っているという言いかたよ」
「ぼくが知っているのは、神月となにかコソコソやっているということだ、君は、たれかの持物になっているウラニウム鉱山を、ひったくりに来ている、パーマーというナチの手先なんだってね。君とパーマーと神月が、帝国ホテルのロビイで、話しているのを、この間、ぼくは見た」
カオルは、たばこに火をつけると、長い煙をふきだしながら、うたうような調子で、言った。
「あんたのような子供に、なにが、わかるというの」
「ぼくに、ものを言うなら、もうすこし、丁寧に言え……君はパパと結婚したがっているが、万一、そんなこ
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