いらざる庇《かば》いたてをしたばかりに、死なせなくともすんだひとを死なせてしまったという思いで、声もあげずにベッドのうえをころげまわっていたが、夜があけると海の見えないところへ逃げて行きたくなり、その日いちにち、谷戸《やと》から谷戸へ、さすらい歩いた。翌日からは、八幡宮の境内や美術館の池のそばで、ささやかなアルバイトをしながら日をくらし、おそくなってから家へ帰るようにしていた。
「あすは、東京へ帰ろう」
 サト子は裏庭の濡縁に立ち、風に吹き散らされて、さびしくなった芙蓉の株をながめながらつぶやいた。
「叔母も帰ってきたし……そろそろ働きださなくては……」
 東京では、秋のショウがはじまりかけ、そのほうの準備にかかっているはずなのに、サト子のところへは、誘いの電話ひとつかかって来ない。
 サト子は、うらみがましい気持になって、ふむと鼻を鳴らした。
「あたしなんか、どうせ三流以下だけど」
 ろくなアクセサリーひとつ、穿《は》きかえの靴すら満足に持っていない、『百合組』といわれている四流クラスだから、シーズンのはじめから、口などかかってこようはずもないが、東京を離れていることが、やはりいけないらしい。いそがしいひとばかりなので、鎌倉にいる新人のモデルにまで、気をくばってはくれないのだ。
 おちびさんの女中が、木戸から駆けこんできた。
「お客さまでございます」
「あたしのところへ、お客さまなんか、来るわけはないわ」
「でも、そうおっしゃいました……中村吉右衛門とおっしゃる方です……」
「中村吉右衛門?……コケシちゃん、あなた、聞きちがいじゃないの?」
「奥さまにお取次したら、お嬢さまのほうだったんです……それで、奥さまが、もし市役所の税務課のひとだったら、まだ帰らないと、おっしゃるようにって」
「じゃ、広縁のほうへ回っていただいて……」
 広縁の椅子で待っていると、玄関わきの枝折戸から、いかついかっこうをした、年配の男がはいってきた。
 黒っぽい背広を着こんで、秋のすがたになっているので見ちがえたが、あの日の、ひとのよさそうな中年の私服だった。
「あなたでしたの……あなたが中村吉右衛門?」
「私が、中村吉右衛門です」
 脳天を平らに刈りあげた、屋根職といった見かけの無骨なひとは、中村吉右衛門には、似てもつかぬものだった。
 サト子は、こみあげてくるおかしさを、下っ腹のとこ
前へ 次へ
全139ページ中14ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
久生 十蘭 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング