神月では、どんな誤解をうけるか知れたものではない、他人の思惑《おもわく》など、すこしも気にしないで通してきたサト子だが、秋川だけには悪く思われたくない。へんな誤解でもうけたら、死んでも死にきれないような気がする。秋川や愛一郎の不審をとくためにも、そのへんの事情をはっきりさせておくほうがいいと思って、神月がやりかけているグラス・ファイバーの宣伝の仕事と、さっきモデル・クラブの事務所で聞いた、アメリカ・ビニロンのモデル募集の話をした。
秋川は苦笑しながら、
「神月という男は、なんということもなく翼賛会の総務にまつりあげられたほか、仕事らしい仕事もせず、あの年になるまで、ノラクラと遊び暮していた徹底的な遊民なんですが、あの男に、そんなむずかしい仕事ができるのかな……それで、ビニロンのほうには、契約書のようなものがありましたか」
「日本文のと英文のと」
秋川は煙草に火をつけ、沈思するおもむきで、長い煙をふきだしていたが、いつものつつしみを忘れたように、
「サインなすった?」
と、だしぬけに強い調子でたずねた。
おだやかすぎる秋川というひとに、こんなはげしいところがあるとは、思ってもいなかったので、サト子は気《け》おされて、
「いいえ」
とだけ、こたえた。秋川は眉をひらいた明るい顔になって、
「あなたほどの聡明な方が、わけのわからない契約書に署名するような、いいかげんなことをなさるはずがないから」
「おほめにあずかって恐縮ですけど、気分まかせってとこで、深く考えてやったことじゃ、ないんです。ただ、なんとなく気がむかなかったから……あたしには、そんなとき、それはまちがいだと、教えてくれるような友達もないんです」
「そうとは限らない。あなたのために、よかれと骨を折っているひとも、あるかもしれませんよ」
サト子は秋川の顔を見た。秋川は笑いながら首を振った。
「私ではありません」
「中村さんですの?」
「中村君も、そのひとりだが、中村君ともちがいます」
「その神さまみたいなひと、どこに隠れているんでしょう? 中村さんなんかの口だと、あたしはいま、なにかたいへんなことになっているらしいのですけど、こんなときに飛びだしてきてくれるんでなくっちゃ、なんにもなりませんわね」
「出てきても来なくとも、やるだけのことはやっています……ともかく、外地に行く契約に、サインをしなかったのは
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