なかで溺れてしまう青年がいる。
 サト子は、時計を見あげた。
 八時半。ぞっと鳥膚がたった。
「つかまるくらいなら、死んでしまう」と、あの青年は言った。
 言葉のカザリのようではなかった。あんな深い目つきをしてみせる青年なら、言ったとおりのことをするのだろう。
 サト子は、パチンコ屋をとびだすと、駅口でタクシをひろった。
「飯島まで……急いで」
 緑色の小型のタクシは、一ノ鳥居をくぐり、海岸に近い通りを走って行く。
 脇窓《わきまど》から、月の光にきらめく海が見える。その海は砲台下の錆銀色の澗につづいている。
 今日の今日くらい、人間の生死の問題が、身を切るような辛さで迫ってきたことはまだなかった。
「すっ飛べ」
 心のなかで叫びながら、サト子は目をつぶる。
 一秒一秒が、光の尾をひきながら流れ去るような思いがしていたが、現実は、やっと海岸橋を渡ったところだった。
「ねえ、急いでくれない」
 運転手は、前窓を見つめながら、たずねた。
「なにか、あったんですか」
「いま、子供が生れるというさわぎ」
 それで、グンとスピードが出る。
 町並みの家々では、あけはなしたまま戸外で涼んでいるので、どの家も、奥までひと目に見とおされる。縁台でゆったりと団扇《うちわ》をつかっているこのひとたちは、暗い洞の奥で死にかけている青年と、なんの関係もないのだと思うと、なにか、はかない気がする。
 海沿いの暗い道をタクシで飛ばし、そのうえで、なにをしようというのか。
 洞の奥に、大震災のときに落盤したという、満潮の水のさわらない岩棚《いわだな》が一カ所ある。サト子が望んでいるのは、あの青年を岩棚のむこうの砂場へ連れこみ、潮がひいて、あすの朝、洞の口がまた水の上にあらわれ出るまで、赤ん坊のように抱いていてやりたいということらしかった。
「あたしにだって母親の素質があるんだろうから、こんなことを考えたって、おかしいことはない」
 タクシが門の前でとまった。車を帰して、家のなかに駆けこむと、広縁から庭先へ出てみた。
 集魚灯をつけた漁船は、まだ、あきらめずにやっている。漁師と若い警官のすがたは見えず、中年の私服が、ひとりだけ船にいた。
 戸締りしたところを、のこらずあけはなすと、サト子は、ラジオのスイッチをひねった。
「フニクリ・フニクラ」という、どこかの国の陽気な民謡が、割れっかえるような音で
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