を言ってくれる。
「泣いて待つより……」
 退屈にうかされて、サト子は、稗搗節をうたいだした。『枯葉』などという、しゃれたシャンソンも知らないわけではないけれど、稗搗節のほうが、今日の気分にピッタリする。
「野に出ておじゃれよ
  野には野菊の花ざかりよ……」
 調子づいてうたいまくっていると、地境の生垣《いけがき》の間から大きな目が覗《のぞ》いた。
「あんなところから覗いている」
 すごい目つきで、サト子が地境の生垣のほうを睨《にら》んでやると、それでフイと人影が隠れた。
 名ばかりの垣根で、育ちのわるい貧弱なマサキがまばらに立っているだけだが、その前の芙蓉《ふよう》が、いまをさかりと咲きほこっているので、花の陰になって、ひとのすがたは見えない。
 女ではない、たしかに男……灰色のポロ・シャツを着ているらしい。
 生垣のむこうは、となりの地内だから、なにをしようと勝手なようなもんだけれど、じっと垣根の根もとにしゃがんでいるのが、気にかかる。
 サト子は籐椅子《とういす》から腰をあげると、座敷を横ぎって、裏庭にむいた濡縁の端《はし》まで行った。
「なにか、ご用でしょうか」
 生垣のむこうから、霞んだような声が、かえってきた。
「いえ」
「あいにく、叔母はおりませんけど、あたしでわかることでしたら」
 芙蓉の花むらのうえに、白っぽい男の顔があらわれた。
「どなたもいらっしゃらないはずなのに、歌が聞えたもんですから……」
 いまの稗搗節を聞かれてしまった。今日はうまくうたえたほうだが、自慢するようなことでもない。
「お聞きになった? あんな歌、うたいつけないんで、まずいんです」
 花のうえのひとは、ほんのりと微笑した。
「なにをおっしゃいます。あまりおじょうずなので……」
 第一印象は童貞……あてにはならないが、そういった感じ。
 二十一二というところか。男にしては、すこし色が白すぎる。ぽってりと肉のついた、おちょぼ口をし、かわいいくらいの青年だ。遠目に見たところでは、中村錦之助の兄の芝雀《しばじゃく》に、いくらか似ている。
 おとなりは山本という実業家の別荘だが、こんな青年がいるとは聞いていない。たぶん夏の間借りの客なのだろうが、日焼していないのが、おかしい。
 やっと、思いあたった……
「叔母が言っていた、あのひとなんだわ」
 近くの結核療養所にいるすごい美青年が、
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