から、サト子の立場は、いっそう辛《つら》いものになった。
漁師たちが錨繩をひきあげようとすると、潮道を見ていた私服が、
「じゃ、おれがやってみる」
と、上着をぬいで、じぶんでやりだした。
月の光のなかでは、人間も、自然も、やさしげに見えるのだろうか。庭先で、あんなエグイ顔をしていた警官たちは、忍耐強い父親のような思いの深いようすになり、是が非でもチンピラの死体をひきあげようと、なりふりかまわず、うちこんでいる。
サト子は、得態の知れない感動で胸をしめつけられ、
「あのひとは、そこの洞のなかにいます」
と、いくども叫びだしそうになった。
むだな骨折りをしている警官たちが、気の毒でならない。いまとなっては、空巣なんかに同情する気は、みじんもないが、といって、そこまでのことは、しかねた。
「見ちゃ、いられない」
サト子は、芝生から立ちあがると、身を隠そうとでもするように、家のなかに駆けこんだ。
サト子は、でたらめな鼻唄をうたいながら、行きどころのないタマシイのように家のなかを彷徨《さまよ》い歩いていたが、どの部屋へ行っても、集魚灯をつけた底引の漁船が、目の下に見える。崖端へ走りだして、大きな声で叫びだしそうで、不安でたまらない。
姿見の前でスカートのヒップのあたりをひと撫でし、戸締りをして家をとびだすと、光明寺のバス停留所のほうへ、歩いて行った。
あふれるような月の光。山門の甍《いらか》に露がおり、海の面《も》のようにかがやいている。
バスが来た。バスはここで折返して、駅のほうへ帰る。
車がまわってくるのを待っていると、ホワイト・シャツに、きちんとネクタイをつけた身なりのいい中年の紳士がバスから降りて海岸へ行きかけた足をかえして、ゆっくりとサト子のそばへやってきた。
「ちょっと、おたずねします。久慈さんというお宅、ごぞんじないでしょうか。このへんだと、聞いてきたのですが、材木座は広いので」
久慈……きょう空巣のはいった家は、たしか久慈と言っていたようだ。
「どういう、ご用なんでしょう」
久慈とこの紳士は、どういう関係なんだろうと考えているうちに、みょうなことを言ってしまった。
そのひとは気にもしないふうで、
「家のものが、昼間からお邪魔しているはずなんですが、月がいいから、呼びだして散歩でもしようと思って」
そう言うと、月を仰いで、
「蒸し
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