しておけないから、谷《やつ》のふところで、山岸カオルと話しているところへ行って、しょっぴいてやった」
 両国橋を渡りかけるころ、前窓《フロント》のガラスに、雨のしずくが、白い筋をひきはじめた。脇窓から、寒むいろの大川の水が見える。けさの霧で、上り下りの小蒸気や発動機船がどこかへ片付いてしまったので、川のおもてが、ひどく広々して見える。
 急に話がとぎれたので、目の隅からうかがうと、中村は目尻のあたりを青ずませ、いまにもドナリだしそうな物騒なようすをしていた。
「すごい顔をしてるわ。あたしの言ったこと、気にさわった」
 中村は顔をあげると、深い物思いから呼びさまされたひとのような、おぼろな声でこたえた。
「……むかしのことを思いだしていたもんだから……白状しますが、じつは、私にも、よく似た経験があるんだ」
 ギョロリとサト子のほうへ振り返って、
「当時、私は大尉で、『足柄《あしがら》』の副長付をしていた」
 といきまくような調子で言った。
「新婚早々で、鎌倉の材木座に住んでいたが、この前の戴冠式《たいかんしき》に、足柄で英国へ行って帰ってきたあと、どうしても、ある男に懲罰を加えてやらなければ、おさまらないことになった……撃っても、斬っても、恥の上塗りになるという、やる瀬ない事情なもんだから、その男を、あるところへひっぱりだして、車でつっかけて、始末してしまおうと思った……あなたも知っている人物だから、名を言ってもかまわない……その男というのは、神月伊佐吉です」
 新婚早々の細君を鎌倉に残し、英国の戴冠式に行っている間に、刃傷沙汰《にんじょうざた》に及ばなくてはならないような事件が起き、そしてその相手が神月伊佐吉ということになれば、聞かなくともおおよそのところは察しられそうだったが、中村が、なぜこんなうちあけ話をする気になったのか納得がいかず、サト子は、浮かない顔で聞いていた。
 そのうちに、大川に沿った、隅田公園のそばの広い道路に出た。
 中村は、側窓のなかで移りかわる川岸の道を、目を細めてながめていたが、うってかわった、おだやかな口調で、
「いまの話のつづきですが、私が神月をやろうと思ったのは、ここだった……月夜でしたが、ちょうど、このあたりを私の車が走っていて、五十メートルほど前方を、神月が歩いていた……」
「おどかそうたって、だめ……」
 サト子は、おしかえすよ
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