はないが、夜おそく、やってくるようなこともあるらしい。
どんなに困っても、シヅのところまで落ちこむはずはないと、サト子は、じぶんを信用しているが、じぶんを身ぎれいにしておくために、いやなことをひとにやらせ、他人の犠牲において、ぬくぬくと暮しているというのは、どういうことなのだろう。
シヅは、ゆうべもひどく酔って、夜中ちかくに車で送られて帰ってきた。着ているものを脱がせて、ベッドへおしあげるので、サト子は大汗をかいた。
骨折りを嫌《いと》うのではない。居たたまらなくなっているのは、もっとほかの事情だ。どんなに酔って帰っても、シヅは早く起きだして、仕事をさがしに出るサト子のために、食事をつくってくれる。見るからに辛そうなときでも、ニコニコ笑いながらやっている。そういうことが重なって、やりきれない心の負担になった。
サト子は、シヅにお別れの手紙を書くつもりで、衣装戸棚へ化粧箱をとりに行った。
十月はじめの長雨で、湿気のしみ通った化粧箱が、棚の中段にチョコンと載っている。外套掛《がいとうか》けには、袖口のすりきれた薄地のコートが、仕留《しと》められたケモノの皮のように、あわれなようすでグッタリとつるさがっている。間代のカタに、持物をおさえられてしまったので、身につくものといえば、上と下が色のちがう古ぼけたセパレーツと、コートと化粧箱だけ。
夏の終りに、秋川の家で受けた心のこもったもてなしのことを、フト思いだす。
「あの約束も、まだ果していない……」
東京へ帰ったら、いちど秋川をたずねると、愛一郎と約束をしたが、こんなようすになりはてては、とても出かけて行く気にはなれない。みじめになって、心が傷つくだけのことだから。
霧がうごき、上げ潮の黒い水の色があらわれだしてくる。ポンポン蒸気が、待っていたように、窓の下の掘割へあがってきた。
しばらく怠けていたが、きょうからまた都会の雑踏のなかで、無慈悲な肱《ひじ》や拳《こぶし》で突きまくられながら、職安を回って仕事を捜して歩かなくてはならない。
「仕事が無かったら、今夜は、どこで寝るのかしら」
秋ざれの寒むざむしい町のなかを、宿るあてもなく歩きまわるのは辛いことだが、友だちというのでもない大矢シヅの世話になっているより、よほどサッパリする。
化粧箱から書簡紙と鉛筆をだすと、窓ぎわの机の前にすわって手紙を書きかけた
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