、グダグダ言っていたが、愛一郎は、はねかえそうともしないので、張合いがぬけたのか、カオルは草むらに足を投げだして、煙草をすいだした。
 西のほうの雲が切れ、海のあるあたりが、白い虹が立つように海光りしている。ルビー色の航空灯が明滅している江ノ島のうえの空を、定時のPAAが鼻唄のような爆音をひびかせながら、低く飛んでいる。谷間から吹きあげる湿った夜風が、いいほどに皮膚をひきしめ、霞《かすみ》がかかったようになっていた頭のなかが、はっきりしてきた。
 秋川は客間でしょんぼりしているのだろう。遊びのような愛一郎とカオルの喧嘩を見ていたってしようがない。しゃがんでいたところから立ちあがろうとしたとき、サト子は、聞き捨てにならないひと言を聞いた。
「愛一郎さん、あなた、どこかへ逃げるつもりなのね」
 愛一郎は、ギックリしたように、はね起きた。
「ぼくが、逃げるんだって?」
「あなたの部屋へはいって、スーツケース、見たわ……どこか、遠いところへ出かけるみたいね」
 事情さえわかれば、署長の裁量で軽くすませると、警察では言っている。いま逃げだしたりしたら、むずかしいことになるのだ。サト子は、どういうことになるのだろうと思って、いまのところへ、またしゃがみこんだ。
 愛一郎は、激したような声で言った。
「ぼくにだって、旅行する権利くらいは、あるだろうさ……行きたけりゃ、どこへだって行くよ」
 カオルは、愛一郎の顔を見ながら、勝ちほこったような声をだした。
「とうとう白状した……あなた、警察がこわいのね?」
「警察が、どうしたって?」
「さっき来たのは、中村という鎌倉署の捜査課のひとよ……神奈川の警察部の渉外部にいるとき、第八軍の憲兵と喧嘩をしたせいで、鎌倉で、捜査課の外勤なんかやらされているけど、あれで、もとは海軍少佐なの」
「どうして、そんなこと知っている?」
「横須賀の保健所で、いっしょに通訳をしていたことがあるからよ……パンスケがむやみに殖えて始末がつかなくなったので、保健福祉局のウィルソンというのと三人で、『白百合』という、共済組合のようなものをつくってやったことがあるの」
「それが、ぼくになんの関係がある?」
「あのひとが玄関へ来たときのあわてかたったら、なかったわ。ソワソワして、ドライヴしましょう、なんて言ったわね。サト子さんと話しているそばを、逃げるように駆けぬけたじ
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