ある、会堂を持って時々講演を開いているのもある、或いは文芸的に或いは劇的に仏教を表現せんとするものもある、如何にもして大文学美術を研究しようとする努力が四方に現われております。老子の如きは戦後大変に研究されましたが、これは一時の流行で長続きをしない、それはちょっと面白いというのでやるのであります。ところが仏教はちょっと面白いという時期はすでに遠き過去にある、今は実際問題に立ち入っている、宗教の行き詰りを打開せんとする努力時代である。一切経の一冊読むにも一千頁は読まなくてはならぬ、自然に深入りして、仏教の蘊奥とまではいかなくても大分詳しい所まで調べようというようなことになって来たのであります。
 文化事業もいろいろに出来ました。日仏文化事業も、仏教字典を編纂する。日獨文化事業も、大乗仏教に東西の融合点を見いださんとしている。日米文化学会も仏教美術に中心を置いている。何れも皆仏教を主眼としている。対支文化事業の方面もすでに仏教方面に大なる努力を払っていただいたのであるが、尚一層有意義にこの方面への進出を願いたい。仏教研究者はシナにもよほど増加したようであります。研究者の連絡を図るということが大切であるのは申すまでもないが、殊に同文同調の国風として進むために、意義深い仏教研究に資する事業を助勢するということは、時代に最も適した施設と考えるのであります。
 西洋の人が日本の大乗仏教を重んずるとシナの方面にもよほど影響がある。西洋の学者の日本に対する態度を見て初めてシナ学者はわれわれと対坐して研究の態度で交際するのでありますが、そうでないと日本を教え子の如くに考える習慣がなかなか取れないのであります。全体で漢文の研究はシナ人に一歩譲るような感じがしますが、仏教の教義問題では一日の長を誇ることが出来るのである。それには仏教を正式に研究した人でなければ分らないのであります。要するに、仏教の研究に関しては第一原本が梵文と巴利文である。この両語を知ることは仏教研究の第一要件である。第二原本が西蔵文である、西蔵一切経は唐代から元代までの飜訳で、殊に句々梵文の影を留めているのであるから、梵文の原型を知るに最も必要である。厳密なる研究には必須の研究である。仏教研究の第三原本が漢文一切経である。今では仏教研究者で漢文に指を染めぬものは余儀なく後塵を拝する外はないのである。而してこの漢文仏教を読破するには日本の解釈に通ぜねば教義的解決は不可能であるといって差支えないのである。第四原本と別立するほどでもないが、日本仏教を味読するだけの眼力がなければ仏教を学び得たとはいえないのであります。この点が西洋の進歩した学者とシナの先進学者の脳底に映じてきたのであります。日本に存在せる仏教研究学派が世界に認められたわけであります。研究学派の存在と相俟って研究材料の存在が三十種の一切経保存と無数の註解末書の存在によって立証されたのであります。
 一言に言えば、日本には研究の仏教、倶舎、唯識、三論もあれば、思索の仏教(華厳、天台)もある。実行の仏教(律)もあれば冥想の仏教(禅、真言)もある。信念の仏教浄土もある。仏教が行く所まで行って思想進展の頂点にまで達したのは日本であることを忘れてはならぬ。これが東西の学界に認められるに至ったのである。
[#地から2字上げ]「昭和五年二月十五日、外務省文化事業部に於ける講演」



底本:「高楠順次郎全集 第一巻」教育新潮社
   1977(昭和52)年2月25日第1刷発行
初出:外務省文化事業部に於ける講演
   1930(昭和5)年2月15日
※「仏」と「佛」、「残」と「殘」、「飜訳」と「翻訳」、「ヴェーダ」と「ベーダ」、「吠※[#「口+它」、第3水準1−14−88]」と「吠陀」、「来」と「來」、「満州」と「満洲」の混在は底本通りにしました。
入力:大橋重紀
校正:小林繁雄
2009年1月18日作成
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