い》、其《そ》れから、總《すべ》て此《こ》の貴方《あなた》の病院《びやうゐん》に居《ゐ》る奴等《やつら》は、實《じつ》に怪《け》しからん、徳義上《とくぎじやう》に於《おい》ては我々共《われ/\ども》より遙《はるか》に劣等《れつとう》だ、何《なん》の爲《ため》に我々計《われ/\ばか》りが此《こゝ》に入《い》れられて居《を》つて、貴方々《あなたがた》は然《さ》うで無《な》いのか、何處《どこ》に那樣論理《そんなろんり》があります?』
『徳義上《とくぎじやう》だとか、論理《ろんり》だとか、那樣事《そんなこと》は何《なに》も有《あ》りません。唯《たゞ》場合《ばあひ》です。即《すなは》ち此處《こゝ》に入《い》れられた者《もの》は入《はひ》つてゐるのであるし、入《い》れられん者《もの》は自由《じいう》に出歩《である》いてゐる、其《そ》れ丈《だ》けの事《こと》です。私《わたし》が醫者《いしや》で、貴方《あなた》が精神病者《せいしんびやうしや》であると云《い》ふことに於《おい》て、徳義《とくぎ》も無《な》ければ、論理《ろんり》も無《な》いのです。詰《つま》り偶然《ぐうぜん》の場合《ばあひ》のみです。』
『那樣屁理屈《そんなへりくつ》は解《わか》らん。』
と、イワン、デミトリチは小聲《こゞゑ》で云《い》つて、自分《じぶん》の寐臺《ねだい》の上《うへ》に坐《すわ》り込《こ》む。
 モイセイカは今日《けふ》は院長《ゐんちやう》のゐる爲《ため》に、ニキタが遠慮《ゑんりよ》して何《なに》も取返《とりかへ》さぬので、貰《もら》つて來《き》た雜物《ざふもつ》を、自分《じぶん》の寐臺《ねだい》の上《うへ》に洗《あら》ひ浚《ざら》ひ廣《ひろ》げて、一つ/\並《なら》べ初《はじ》める。パンの破片《かけら》、紙屑《かみくづ》、牛《うし》の骨《ほね》など、而《さう》して寒《さむさ》に顫《ふる》へながら、猶太語《エヴレイご》で、早言《はやこと》に歌《うた》ふやうに喋《しやべ》り出《だ》す、大方《おほかた》開店《かいてん》でも爲《し》た氣取《きどり》で何《なに》かを吹聽《ふいちやう》してゐるので有《あ》らう。
『私《わたし》を此處《こゝ》から出《だ》して下《くだ》さい。』と、イワン、デミトリチは聲《こゑ》を顫《ふる》はして云《い》ふ。
『其《そ》れは出來《でき》ません。』
『如何云《どうい》ふ譯《わけ》で。其《そ》れを聞《き》きませう。』
『其《そ》れは私《わたし》の權内《けんない》に無《な》い事《こと》なのです。まあ、考《かんが》へて御覽《ごらん》なさい、私《わたし》が假《かり》に貴方《あなた》を此《こゝ》から出《だし》たとして、甚麼利益《どんなりえき》が有《あ》りますか。先《ま》づ出《で》て御覽《ごらん》なさい、町《まち》の者《もの》か、警察《けいさつ》かが又《また》貴方《あなた》を捉《とら》へて連《つ》れて參《まゐ》りませう。』
『左樣《さやう》さ/\其《そ》れは然《さ》うだ。』と、イワン、デミトリチは額《ひたひ》の汗《あせ》を拭《ふ》く、『其《そ》れは然《さ》うだ、然《しか》し私《わたし》は如何《どう》したら可《よ》からう。』
 アンドレイ、エヒミチはイワン、デミトリチの顏付《かほつき》、眼色《めいろ》抔《など》を酷《ひど》く氣《き》に入《い》つて、如何《どう》かして此《こ》の若者《わかもの》を手懷《てなづ》けて、落着《おちつ》かせやうと思《おも》ふたので、其寐臺《そのねだい》の上《うへ》に腰《こし》を下《おろ》し、些《ちよつ》と考《かんが》へて、偖《さて》言出《いひだ》す。
『貴方《あなた》は如何《どう》したら可《よ》からうと有仰《おつしや》るが。貴方《あなた》の位置《ゐち》を好《よ》くするのには、此《こゝ》から逃出《にげだ》す一|方《ぱう》です。然《しか》し其《そ》れは殘念《ざんねん》ながら無益《むえき》に歸《き》するので、貴方《あなた》は到底《たうてい》捉《とら》へられずには居《を》らんです。社會《しやくわい》が犯罪人《はんざいにん》や、精神病者《せいしんびやうしや》や、總《すべ》て自分等《じぶんら》に都合《つがふ》の惡《わる》い人間《にんげん》に對《たい》して、自衞《じゑい》を爲《な》すのには、如何《どう》したつて勝《か》つ事《こと》は出來《でき》ません。で、貴方《あなた》の爲《な》すべき所《ところ》は一つです。即《すなは》ち此處《こゝ》に居《ゐ》る事《こと》が必要《ひつえう》であると考《かんが》へて、安心《あんしん》をしてゐるのみです。』
『いや、誰《たれ》にも此處《こゝ》は必要《ひつえう》ぢや有《あ》りません。』
『然《しか》し已《すで》に監獄《かんごく》だとか、瘋癲病院《ふうてんびやうゐん》だとかの存在《そんざい》する以上《いじやう》は、誰《たれ》か
前へ 次へ
全50ページ中23ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
瀬沼 夏葉 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング