い》つてゐる樣子《やうす》。誰《たれ》か若《も》し近着《ちかづき》でもすれば、極《きまり》惡《わる》さうに急《いそ》いで胸《むね》から何《なに》かを取《と》つて隱《かく》して了《しま》ふ。然《しか》し其祕密《そのひみつ》は直《すぐ》に解《わか》るのである。
『私《わたくし》をお祝《いは》ひなすつて下《くだ》さい。』
と、彼《かれ》は時々《とき/″\》イワン、デミトリチに云《い》ふことがある。
『私《わたくし》は第《だい》二|等《とう》のスタニスラウの勳章《くんしやう》を貰《もら》ひました。此《こ》の第《だい》二|等《とう》の勳章《くんしやう》は、全體《ぜんたい》なら外國人《ぐわいこくじん》でなければ貰《もら》へないのですが、私《わたくし》には其《そ》の、特別《とくべつ》を以《もつ》てね、例外《れいぐわい》と見《み》えます。』
と、彼《かれ》は訝《いぶ》かるやうに些《ちよつ》と眉《まゆ》を寄《よ》せて微笑《びせう》する。
『實《じつ》を申《まを》しますと、是《これ》はちと意外《いぐわい》でしたので。』
『私《わたくし》は奈何《どう》もさう云《い》ふものに就《つ》いては、全然《まるで》解《わか》らんのです。』
とイワン、デミトリチは愁《うれ》はしさうに答《こた》へる。
『然《しか》し私《わたくし》が早晩《さうばん》手《て》に入《い》れやうと思《おも》ひますのは、何《なん》だか知《し》つておゐでになりますか。』
 先《もと》の郵便局員《いうびんきよくゐん》は、さも狡猾《ずる》さうに眼《め》を細《ほそ》めて云《い》ふ。
『私《わたくし》は屹度《きつと》此度《こんど》は瑞典《スウエーデン》の北極星《ほくきよくせい》の勳章《くんしやう》を貰《もら》はうと思《おも》つて居《を》るです、其勳章《そのくんしやう》こそは骨《ほね》を折《を》る甲斐《かひ》のあるものです。白《しろ》い十|字架《じか》に、黒《くろ》リボンの附《つ》いた、其《そ》れは立派《りつぱ》です。』
 此《こ》の六|號室程《がうしつほど》單調《たんてう》な生活《せいくわつ》は、何處《どこ》を尋《たづ》ねても無《な》いであらう。朝《あさ》には患者等《くわんじやら》は、中風患者《ちゆうぶくわんじや》と、油切《あぶらぎ》つた農夫《のうふ》との外《ほか》は皆《みな》玄關《げんくわん》に行《い》つて、一つ大盥《おほだらひ》で顏《かほ》を洗《あら》ひ、病院服《びやうゐんふく》の裾《すそ》で拭《ふ》き、ニキタが本院《ほんゐん》から運《はこ》んで來《く》る、一|杯《ぱい》に定《さだ》められたる茶《ちや》を錫《すゞ》の器《うつは》で啜《すゝ》るのである。正午《ひる》には酢《す》く漬《つ》けた玉菜《たまな》の牛肉汁《にくじる》と、飯《めし》とで食事《しよくじ》をする。晩《ばん》には晝食《ひるめし》の餘《あま》りの飯《めし》を食《た》べるので。其間《そのあひだ》は横《よこ》になるとも、睡《ねむ》るとも、空《そら》を眺《なが》めるとも、室《へや》の隅《すみ》から隅《すみ》へ歩《ある》くとも、恁《か》うして毎日《まいにち》を送《おく》つてゐる。
 新《あたら》しい人《ひと》の顏《かほ》は六|號室《がうしつ》では絶《た》えて見《み》ぬ。院長《ゐんちやう》アンドレイ、エヒミチは新《あらた》な瘋癲患者《ふうてんくわんじや》はもう疾《と》くより入院《にふゐん》せしめぬから。又《また》誰《ゝれ》とて這麼瘋癲者《こんなふうてんしや》の室《へや》に參觀《さんくわん》に來《く》る者《もの》も無《な》いから。唯《たゞ》二ヶ|月《げつ》に一|度《ど》丈《だ》け、理髮師《とこや》のセミヨン、ラザリチ計《ばか》り此《こゝ》へ來《く》る、其男《そのをとこ》は毎《いつ》も醉《よ》つてニコ/\しながら遣《や》つて來《き》て、ニキタに手傳《てつだ》はせて髮《かみ》を刈《か》る、彼《かれ》が見《み》えると患者等《くわんじやら》は囂々《がや/\》と云《い》つて騷《さわ》ぎ出《だ》す。
 恁《か》く患者等《くわんじやら》は理髮師《とこや》の外《ほか》には、唯《たゞ》ニキタ一人《ひとり》、其《そ》れより外《ほか》には誰《たれ》に遇《あ》ふことも、誰《たれ》を見《み》ることも叶《かな》はぬ運命《うんめい》に定《さだ》められてゐた。
 しかるに近頃《ちかごろ》に至《いた》つて不思議《ふしぎ》な評判《ひやうばん》が院内《ゐんない》に傳《つた》はつた。
 院長《ゐんちやう》が六|號室《がうしつ》に足繁《あしゝげ》く訪問《はうもん》し出《だ》したとの風評《ひやうばん》。

       (五)

 不思議《ふしぎ》な風評《ひやうばん》である。
 ドクトル、アンドレイ、エヒミチ、ラアギンは風變《ふうがは》りな人間《にんげん》で、青年《せいねん》の頃《ころ》
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