うど、買ったばかりの白いシャツに、汚泥《おでい》の飛沫《ひまつ》をひっかけられたように。
石太郎にすまないという気持ちや、石太郎はぎせいに立ってえらいなという心は、ぜんぜん起こらなかった。石太郎が弁解しなかったのは、他人の罪をきて出ようというごとき高潔《こうけつ》な動機からでなく、かれが、歯がゆいほどのぐずだったからにすぎない。
また石太郎は、なんどむちでこづかれたとて、いっこう骨身《ほねみ》にこたえない。まるで日常|茶飯事《さはんじ》のようにこころえているのだから、いささかも、かれにすまないと思う必要はないわけである。
むしろ、石太郎みたいな屁の常習犯がいたために、こんななやみが残ったのだと思うと、かれがうらめしいのである。
しかし、ときが、春吉君の煩悶《はんもん》を解決してくれた。十日もすると、もうほとんど忘れてしまった。
だが春吉君は、それからのち、屁そうどうが教室で起こって、例のとおり石太郎がしかられるとき、けっしていぜんのようにかんたんに、それが石太郎の屁であると信じはしなかった。だれの屁かわからない。そしてみんなが、石だ、石だといっているときに、そっとあたりのものの顔を見まわし、あいつかもしれない、こいつかもしれないと思う。
うたがいだすと、のこらずのものがうたがえてくる。いや、おそらくは、だれにもいままでに、春吉君と同じような経験があったにそういないと考えられる。
そういうふうに、みんな狡猾《こうかつ》そうに見える顔をながめていると、なぜか春吉君は、それらの少年の顔が、その父親たちの狡猾な顔に見えてくる。おとなたちが、せちがらい世の中で、表面はすずしい顔をしながら、きたないことを平気でして生きていくのは、この少年たちが、ぬれぎぬをものいわぬ石太郎にきせて知らん顔しているのと、なにか、にかよっている。しぶんもそのひとりだと反省して、自己嫌悪《じこけんお》の情がわく。だが、それは強くない、心のどこかで、こういう種類のことが、人の生きていくためには、肯定《こうてい》されるのだと、春吉君には思えるのであった。
底本:「牛をつないだ椿の木」角川文庫、角川書店
1968(昭和43)年2月20日初版発行
1974(昭和49)年1月30日12版発行
入力:林 幸雄
校正:鈴木厚司
2001年9月4日公開
2001年10月15日修正
青空
前へ
次へ
全13ページ中12ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
新美 南吉 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング