れればよいがと、春吉君はひそかに願った。ならびの席にいる源五兵衛《げんごべえ》君は、鼻じるをすすりながら、ぶかっこうに大きな動物――たぶん、かめだろうと思われるが、ともかく四足動物の四本めの足をくっつけようと努力している。うしろの照次郎君も、与之助《よのすけ》君も、それぞれの制作に余念がない。
 すこし時間がたった。春吉君はたすかったと思った。と、そのせつな、古手屋の遠助が、あ、くせ、と、第一声をはなった。すぐに、くせえ、くせえ、という声が、四方に伝わった。春吉君は、はずかしさで顔がほてってきた。
 いつもと同じさわぎがはじまった。屁えこき虫の石太郎が屁をはなったときと、寸分《すんぶん》ちがわぬことが。
 春吉君は、どうしていいのかわからない。もう、なりゆきにまかすばかりだ。
 やがて古手屋の遠助が、きょうは大根菜屁《だいこんなっぺ》だといった。なんという鋭敏《えいびん》な嗅覚《きゅうかく》だろう。たしかに春吉君は、けさ大根菜のはいったみそしるでたべてきたのである。
 やがてさわぎが大きくなりだしたころ、藤井先生が例によって、
「だれだっ」
とどなられた。春吉君は意味もなくねんどをひねりながら、いきをのんて、面《おもて》をふせた。みんなの視線が、ちょうどいつも石太郎の上に蝟集《いしゅう》するように、きょうは、じぶんにそそがれているのだと思いながら。
 いまにどこからか、春吉君だという声が起こってくるにそういない、と思った。そういうふうにすっかり観念《かんねん》していたので、石だ、石だ、というあやまった声があがったときには、じぶんの頭上に落ちてくるはずのげんこつが、わきにそれたように、ほっとしたきみょうな感じになった。
 顔をあげてみると、意外にも、みんなの視線は、春吉君に集中されておらず、やはり石太郎の方にむいているのだ。
 藤井先生が、黒板のうらにかかっているむちをとって、つかつかと石太郎の前に歩いていかれる。春吉君の心の底から、正義感がむくっと起きてきた。じぶんだといってしまおうか、しかし、だれひとり、じぶんをうたがってはいないのである。ここで白状するのは、なんともはずかしい。先生が石太郎の席に達するまでのみじかい時間を、春吉君の中で正義感と羞恥心《しゅうちしん》とが、めまぐるしい闘争をした。それが春吉君の動悸《どうき》を、鼓膜《こまく》にドキッドキッとひびくほ
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