もいえると思う。小説が口から離れて紙に移ったところから小説の堕落がはじまるのである。それが嘘だというなら、例えば西鶴やトルストイや宇野浩二などのすぐれた小説を読んで見るとよろしい。そこにはあなた方は作家の手からでなく、作家の口から出て来る息吹きのこもった言葉をきくであろう。
童話はもと――それが文学などという立派な名前で呼ばれなかった時分――話であった、物語りであった。文学になってからも物語りであることをやめなかった(アンデルゼンやソログーブのことを憶《おも》い出して下さい)。文芸童話の時代になっても童話は物語りであることをやめてはならなかったのである。ちょうど、人間が様々な時代に様々の帽子をかむって来たのにかかわらず頭そのものは変わらなかったように。このことは、童話の読者が誰であるかを考えて見ればすぐ解る。相手は子供であって文学青年ではない。そこで今日の童話は、物語性を取り戻す事に努力を払わねばならない。大人の文学が物語性を持たないからとて、どうしてそれを真似《まね》る必要があろう。そして、はじめに述べたジャアナリズムの悪い習慣にもかかわらず、童話は本来の物語性を取り戻しうると私は信じる。
ここで憶い出して頂きたい、フランクリンが友人数名とクラブを作り各自が書いてきた原稿(童話ではなかったが)を作者が読み他の者が聞き、批判しあったことを。またディケンズが彼の長い小説の一章ずつを友人たちに聞いてもらったことを。『詩と真実』によればゲーテもまた作品を読み聞かせる習慣を尊んだようである。これらのすぐれた文士たちは、こうして、文体の簡潔、明快、生新さ、内容の面白さを失わぬように努めた。これは昔風な馬鹿正直なやり方のように見える。しかし、今日、童話が物語性を再び身につけるには、少しでも話の内容なり文章なりが退屈になればすぐ聴手がごそごそしはじめるので全然作家のひとりよがりを許さない。この厳しい方法が最もよいと思う。
底本:「新美南吉童話集」岩波文庫、岩波書店
1996(平成8)年7月16日第1刷発行
1997(平成9)年7月15日第2刷発行
入力:大野晋
校正:伊藤祥
1999年3月2日公開
2003年10月3日修正
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