うど》洋服屋が客の註文に応ずるように、ジャアナリズムの註文通りの寸法に書かねばならない。しかもこの場合、作家は洋服屋より一層困難である。洋服屋には何|呎《フィート》でも服地はある。だから大きい寸法には大きい服地をもって臨むばかりだ。しかし作家にはいつでも、いかなる寸法の註文にでも応じられる大小様々の素材のストックがあるわけではあるまい。或る場合には、三枚の素材を七枚の作品に仕あげ、或る場合には五枚の素材を二十枚にひきのばす。零《ゼロ》の素材から数枚の作品が生ずるという、物理的に不可能なこともここではしばしばあり得る。何にしても作家たちの関心事は洋服屋の関心事と同じである。先《ま》ず寸法にあったものを造ることなのだ。
 ここから文学が貴重なものを失った事実は、容易に首肯される。文章をひきのばす努力のため、簡潔と明快と生気がまず失われ、文章は冗漫になり、あるいはくどくなり、あるいは難解にして無意味な言葉の羅列になった。同時に内容の方では興味が失われ、ダルになり煩瑣《はんさ》になってしまった。これらをひっくるめて物語性の喪失と私はいいたい。
 大人の文学が物語性を失った時、文学家族の一員である児童文学も、見よう見まねで堕落したのである。今日の童話を読んで見るとその物語性の殆《ほと》んど存していないことに人は気付くだろう。自分の子供や生徒に、お話をきかせてやるため、あなた方がストオリイを探そうとして、百篇の今日の童話を読まれても、あなた方はただ失望の吐息をつかれるばかりであろう。こう私がいえば、或る童話作家たちは次のように私に反駁《はんばく》するかも知れない。「君は実演童話と創作童話を混同しているのではないか。ストオリイの面白味なら実演童話に求めたまえ。われわれの創作童話にそれを求めて来るのはお門違《かどちが》いである」。実際この通りのことを言っていた児童文芸家があった。しかし私には、そもそも実演童話と創作童話が全然別種なものでなければならぬ理由が肯《うなず》けないのである。何故口で語られる童話と紙に印刷される童話が全然別種なものとされねばならぬのか。私には紙の童話も口の童話も同じジャンルだと思われる。紙で読んで面白くない童話は口から聞かされても面白くない。口から聞かされてつまらない童話は紙で読んでもつまらなくないはずがない。このことは童話ばかりではなく、大人の小説について
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