ません。
とうとう、小さい太郎はしびれをきらして、
「安さん、安さん。」
と、小さい声でよびました。安雄さんにだけ聞こえればよかったのです。
しかし、こんなせまいところでは、そういうわけにはいきません。おじさんが聞きとがめました。おじさんは、いつもは子どもにむだぐちなんかきいてくれるいい人ですが、きょうは、なにかほかのことではらをたてていたとみえて、太いまゆねをぴくぴくと動かしながら、
「うちの安雄はな、もう、きょうから、一人まえのおとなになったでな、子どもとは遊ばんでな、子どもは子どもと遊ぶがええぞや。」
と、つっぱなすようにいいました。
すると安雄さんが、小さい太郎の方を見て、しかたがないように、かすかにわらいました。そしてまたすぐ、じぶんの手先に熱心な目をむけました。
虫がえだから落ちるように、力なく、小さい太郎はこうしからはなれました。
そして、ぶらぶらと歩いていきました。
五
小さい太郎の胸《むね》に、深い悲しみがわきあがりました。
安雄さんはもう、小さい太郎のそばに帰ってはこないのです。もういっしょに遊ぶことはないのです。おなかがいたいなら、あしたになればなおるでしょう。三河《みかわ》にもらわれていったって、いつかまた帰ってくることもあるでしょう。しかし、おとなの世界[#「おとなの世界」に傍点]にはいった人が、もう子どもの世界[#「子どもの世界」に傍点]に帰ってくることはないのです。
安雄さんは、遠くにいきはしません。同じ村の、じき近くにいます。しかし、きょうから、安雄さんと小さい太郎は、べつの世界[#「べつの世界」に傍点]にいるのです。いっしょに遊ぶことはないのです。
小さい太郎の胸には、悲しみが空のようにひろく、深く、うつろにひろがりました。
ある悲しみは、なくことができます。ないて消すことができます。
しかし、ある悲しみはなくことができません。ないたって、どうしたって、消すことはできないのです。いま、小さい太郎の胸《むね》にひろがった悲しみは、なくことのできない悲しみでした。
そこで小さい太郎は、西の山の上にひとつきり、ぽかんとある、ふちの赤い雲を、まぶしいものを見るように、まゆをすこししかめながら、長いあいだ見ているだけでした。かぶと虫がいつか指からすりぬけて、にげてしまったのにも気づかないで――
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