流転
山下利三郎

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)蕗子《ふきこ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)先月|窒扶斯《ちぶす》で

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》った
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「蕗子《ふきこ》が殺されたのは、その晩の僅かな時間のあいだでした……。
 私が訣別《わかれ》の詞《ことば》を書いた手紙をもって戸外へ出ると、そこは彼女の家の裏まで田圃《たんぼ》つづきです。彼女の居間に灯のついていることが、幾度か窓の下へ近よってゆくことを逡巡《しりごみ》させましたが、ようやく思切って忍足に障子の際までゆくと、幸いその破れから内部を覗くことができました。
 母に死別《しにわか》れて間のない、傷みやすい蕗子の心を波立たせたくない。能《でき》ることなら何も知らせずに、このまま土地を離れてしまいたい。この手紙だって、自分が旅立ってしまうまでは、見てくれない方が好いのだと思っていたのですが、都合の好いことには蕗子は他の部屋にでも行っていたのか、その部屋は空っぽだったのです。
 分厚い手紙が、指先を放れて、窓障子の間からぱさりと音をたてて落ちました。
 私は見咎《みとが》められないように窓の下を放れて、私の家へ帰りましたが、そのからんとした空家……もうこれでお別れかと思うと、梁《はり》にかけられた蜘蛛《くも》の巣までに愛着が感じられたのです。気を取直して荷物を携げて停車場までゆきましたが、予定の汽車が出るまでには、まだ二時間近くも余裕があります。
 駅前の休憩所で時間を待合わせる間にも、駅を出入りする人影に気をとられていました。お笑い下さいますな、万一あの手紙を読んだ蕗子が、ここへ駈つけて来はしないかと、ふとそんなふうに考えられたからです。
(済みませんでした、旅へなど出ないで下さいな)。
 彼女の唇からそうした詞《ことば》が聞けるものなら、その場で生命を投出したところで惜しくはなかったでしょう、私はとても静《じっ》と沈着《おちつ》いては居られませんでした。
 休憩所をふらふらと出て、夢遊病者《むゆうびょうしゃ》のように町から村を過ぎ、私の住居だった家なんか見顧《みかえ》りもしないで、畑の畔つたいに彼女の部屋の方へ近寄っていったのです。
 せめて余所《よそ》ながら蕗子の顔を一目見てから、慾を云えば何とか一言口を利いてから出立したくなりました。折角《せっかく》心持が緊張しているうちにやり遂げたかった計画も、こうした状態《ありさま》でずるずると一角から崩れはじめました。
 どうしてそんな気になったのでしょう。不図顔をあげて、灯のさす窓を仰いだ私は、障子へすゥと流れるように映った男の影法師を見て、思わず眼を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》ったのでした。
 おう、蕗子の部屋には中谷《なかたに》が来ているのだ、そうだ、この土地へ来てからたった一人の友人で、まるで兄弟のように親しみ合っていたのが、蕗子というものを中心とするようになってから互いが妙に白け合ってしまい、とうとう蕗子から私と云うものをまったく駆除してしまったあの中谷、今日私を他郷《よそ》へ流転の旅に送出《おくりだ》そうとした中谷が来ているのだ。
 私は少時《しばらく》そこに立縮《たちすく》んでいました。
 ところが或事に気付いた私は悸然《ぎょっ》としました、外《ほか》でもありません。中谷なら髪を長く伸している筈ですのに、いま映った影法師はたしか毬栗頭《いがぐりあたま》だったではありませんか。
 不思議さのあまり呆然そこに佇んでいると、不意に背後から私の利腕《ききうで》をぐッと掴んだものがあります、愕《おどろ》いて振顧《ふりかえ》ると見も知らない男が私の方を睨みつけながら、ぐいぐい腕を引張ります。不意ではあり何のことだか夢のような心持で、抵抗《てむか》いもせず扈《つ》いてゆくと、その男は私を蕗子の家の表口から連れこみました。
 すべてこの出来事が私にとって解けない謎だったのです。
 台所には蕗子の妹で十三か四になる艶子《つやこ》が、近所の内儀《おかみ》さんたち二三人に囲まれて、畳に打伏したまま潸々《さめざめ》と泣いていました。
 その次の間の仏壇にはつい先月|窒扶斯《ちぶす》で亡くなった母親の位牌《いはい》が、灯明の灯にてらされながら、立ちのぼる淋しい香煙に絡《から》まれていました。その次が蕗子の居間です。
 内部の情景を一目見せられた私は、想わずあっと愕《おどろ》きの叫びを立てましたが、俄《にわか》に体中が慄《ふる》え出し、奥歯のかちかち触れ合うのが止みません……何という惨《むご》たらしい出来ごとでしょう。
 医者らしい男の外に制服の警官たちが、険しい眼付《めつき》で私を迎えたその脚下には、蕗子が白い胸も露わにあけはだけたまま倒れています。
 蒼白い蝋《ろう》のような頬には髪が乱れかかり、その頸には燃えるような真紅の紐が捲きつけてありました。
 そして呆れている私の顔を見て、冷《せせ》ら笑っている警官の手には何と、誰が封を切ったものか私から蕗子に宛てて投込《なげこん》だ手紙が握られていました。それきり私はすッと四辺《あたり》が暗くなって深い深い谿《たに》へ落ちてゆくように感じましたが、その後は誰が何を云ったのやら、判然《はっきり》とおぼえて居りません。
 けれども現実は飽くまで現実です。
 蕗子殺害の嫌疑をうけた私は厳しい取調べをうけました。私が急に家を畳んで旅に出ようとしたのが一番いけなかったので、旅立とうとした悲壮な心持なんかは説明したところで係官にはよく理解ができなかったのです。中谷も参考人として喚《よ》ばれましたが、親しかった以前に引かえて、彼は冷然と私に不利な証言をしました。
 現場不在証明《アリバイ》……そんなことは出来ませんでした、何でも蕗子が殺された時間には、私はまだ空家になった私の家でただ一人、行李《こうり》に凭《もた》れかかって黙想に耽っていたのでしたから。
 私は心から中谷の陋劣《ろうれつ》な心事を憎みました。どうかして復讐してやりたいという望みを押えることができません、そこで取調べのとき中谷の聞いている前でこう云ってやりました。
(蕗子と私とはかなり長い間特別な交際を続けていました。私がこの土地へ来て間なしに彼女と知り合い、精神的にも物質的にも私としては出来るだけの好意と愛とを寄せていました。死んだ彼女の母も或程度まではそれを黙っていてくれたのです。それが近頃になって蕗子は私に、ある男が云い寄ってくるので困るがどうしたら好かろうかと話しました。その男というのは私におおかた察しがついていました。
 私はいろいろ考えてみました、蕗子と私とはかなり年齢も違っています。私としては相続しなければならない家もありますので、養子を迎えなければならない蕗子に、幸福な結婚生活をさせるについては種々障害があります。そこで蕗子によく云含めて私は快く一旦手を切りました。ところが折角《せっかく》私の心づかいも無になって蕗子の口からその男の非難をよく聞かされたものです。口振りから察しても蕗子は決してその男を愛していないらしかったのです……)とね。
 妙な意地ずくからこんな出鱈目《でたらめ》を申立て、愛する蕗子の死後を涜《けが》して実に彼女に対して申しわけのないことですが、聞いている中谷は見る見る真蒼な顔をして、額に脂汗《あぶらあせ》をにじませ、今にも倒れそうな状態《ありさま》でした。
 それを見て私は心の中に非常な満足を覚えましたものの、由《よし》ないことを云ってしまったと後悔しないわけにゆきませんでした。何故ならばそれがため余計に私の弁解が益立《やくだ》たなくなってしまいました。中谷も一旦は調べられましたが素《もと》より狡智《こうち》に長《た》けた彼は巧く云遁《いいのが》れたようです。
 種々《いろいろ》審理の末、私はとうとう十二年の宣告を受けてしまいました。
 蕗子の死んだことが私の生活にとって致命的な大打撃でした。唯一の憧れであった蕗子が死んでみれば放浪に出ることなんか意義のないことで、免訴になったところで何の生《い》き効《がい》があるでしょう。中谷へ皮肉な復讐から蕗子と特別な交りのあったことを、一般に信じさせてしまった上は、私自らもそれを慰めとして十二年の刑に服した方が、彼女への謝罪の道だと考えた末、控訴もしないで刑につきました。
 十年の刑務所生活、その間に世の中は変りましたね。まだ残っている刑期を恩典にあって放免されたのがこの秋でした。
 娑婆《しゃば》に出てみると蕗子の妹艶子は、誰に聞いてもその行衛《ゆくえ》が判りません。中谷の消息も捜りましたが知れないのです。
 狭いようでも広い世間で、逢いたいと思う人々は仲々|廻合《めぐりあ》わないものですね……。
 いや、もうこんな話は止しましょう。こんな下らない身の上|噺《ばなし》じゃ小説にもなりますまい、ほんとうに御退屈でしたろう……」

 放浪者は淋しく笑って卓の上に残った茶碗を取上げたが、すぐ冷たそうに唇から放してしまった。自分自身の話に亢奮《こうふん》したらしく眼は輝いて頬に血の気が上り、先刻のような寒そうな悒鬱《ゆううつ》なようすは、どこにも残っていなかった。
 氷雨のためにびしょ濡れだった衣服も靴も、燃盛《もえさか》るストーブの活気でもうことごとく皆乾いていた。
「まるで垂水洋鵝《たるみようが》さんの小説のようですね」
 小村《こむら》のこの詞《ことば》に放浪者はちょっと眼をぱちくりさせた。
「何でございます、それは」
「いや、この人はそういったようなことをよく小説に書く人ですが、それよりもっと興味のあるお噺でした。しかし十年近い年月をよく忍耐できましたね。一体誰がその蕗子という娘を殺したのでしょう」
「誰が殺したにしたところで、それはもう過去《すぎさ》ったことで、幾ら詮議《せんぎ》したとて彼女は生還《いきかえ》っては来ないではありませんか。蕗子が生存しない以上私がこの世に残って何をしようと同じことです。刑務所で暮すことも決して苦痛だとは考えませんでした」
「実に不可解な心持ですな。事実として考えることのできないような」
「いくら小説をお描きになる貴方でもまだお若いから、御想像がつかないかも知れませんが、中年者の恋はそれだけ棄身《すてみ》で真剣なのです……いや、図に乗って四十を越えた私が気のさすお話をして恐縮です。もう夜も更けたようですからこれでお暇いたします。初めてお目に懸った貴方に、とんだ御散財をかけて済みません、ではこのお名刺も戴いてまいります」
 叮寧《ていねい》に頭を下げた放浪者は静かに上衣の釦《ボタン》をかけて立上った。
 その抜け上った額や、痩せて弛みのできた頬が、いかにも人の好さそうなそして平和らしい相貌に見えて、小村は何となしにこの儘で別れてしまうのが寂しかった。
「今からどこへいらっしゃるのです、まさか東京へ帰るのじゃないでしょう」
「はい、実は梅田《うめだ》停車場の裏の方に、少々|知辺《しるべ》がありますから、行って泊めて貰おうかと思っています」
「あのウ、悪く思わないで下さいよ、万一その家が起きてくれなかったら、宿屋へ泊る足しにでもして下さい」
 小村は蟇口《がまぐち》から一枚の紙幣をつまみ出して相手に握らせた。放浪者はひどく辞退していたが、熱心な小村の辞《ことば》に動かされてしまった。
「御好意に甘えさせて貰います。御親切は永く忘れません、御縁があればまたお目に懸《かか》れるでしょう。どうぞ立派な小説をお描きになりますよう、陰からお祈りしています」
「不意にお呼止めしたのを慍《おこ》りもなさらないで、よく来て下さいました。ほんとうにいつか又お目にかかりたいものですね」
 小村に送られて階段を降り、卓の間を縫って扉口まできたが、こんどは先刻のように怪訝《けげん》らしい眼で眺める人は
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