しがい》に横行《おうこう》し、良家《りょうか》に闖入《ちんにゅう》して金銭を掠《かすむ》るの噂《うわさ》ありし時も、先生|頗《すこぶ》る予が家を憂慮《ゆうりょ》せられ、特に塾員《じゅくいん》に命《めい》じ、来《きたっ》て予が家に宿泊《しゅくはく》せしめ、昼夜《ちゅうや》警護《けいご》せられたることあり。その厚意《こうい》今なお寸時《すんじ》も忘《わす》るること能《あた》わず。
 江戸|開城《かいじょう》の後、予は骸骨《がいこつ》を乞《こ》い、しばらく先生と袂《たもと》を分《わか》ち、跡《あと》を武州《ぶしゅう》府中《ふちゅう》の辺に屏《さ》け居るに、先生は間断《かんだん》なく慰問《いもん》せられたり。
 明治四年八月、予|再《ふたた》び家を東京に移《うつ》すに及び、先生|直《ただ》ちに駕《が》を抂《まげ》られ、いわるるよう、鄙意《ひい》、君が何事か不慮《ふりょ》の災《さい》あらん時には、一臂《いっぴ》の力を出し扶助《ふじょ》せんと思い居《お》りしが、かくてはその災害《さいがい》を待つに同《おなじ》くして本意《ほんい》に非ざれば、今より毎年|寸志《すんし》までの菲品《ひひん》を呈《てい》すべしとて、その後は盆《ぼん》と暮《くれ》に衣物《いぶつ》金幣《きんへい》、或は予が特に嗜好《しこう》するところの数種を添《そ》えて※[#「貝+兄」、97−15]《おく》られたり。またその時予が妻《さい》に向《むかっ》て、今日福沢諭吉は大丸《だいまる》ほどの身代《しんだい》に成りたれば、いつにても予が宅に来て数日|逗留《とうりゅう》し、意を慰《なぐさ》め給うべしとなり。
 明治十四年九月、予は従来|筆記《ひっき》し置《おき》たる小冊を刊行《かんこう》し、これを菊窓偶筆《きくそうぐうひつ》と名づけ世に公《おおやけ》にせんと欲し先生に示したれば、先生これを社員《しゃいん》それ等の事に通暁《つうぎょう》せる者に命じ、印刷《いんさつ》出板《しゅっぱん》の手続きより一切《いっさい》費用《ひよう》の事まで引受《ひきうけ》られ、日ならずして予が望《のぞみ》のごとく美《び》なる冊子《さっし》数百部を調製《ちょうせい》せしめて予に贈《おく》られたり。
 同二十四年十月、予また幕末《ばくまつ》の編年史《へんねんし》を作り、これを三十年史と名《なづ》け刊行《かんこう》して世に問《と》わんとせし時、誰人《たれびと》かに序文《じょぶん》を乞《こ》わんと思いしが、児《じ》駿《しゅん》、側《かたわら》に在《あ》りて福沢先生の高文《こうぶん》を得ばもっとも光栄《こうえい》なるべしという。然《しか》れども先生は従来《じゅうらい》他人の書に序《じょ》を賜《たま》いたること更になし、今|強《しい》てこれを先生に煩《わずらわ》さんこと然《しか》るべからずと拒《こば》んで許さざりしに、児《じ》竊《ひそ》かにこれを携《たずさ》え先生の許《もと》に至り懇願《こんがん》せしかば、先生|速《すみやか》に肯諾《こうだく》せられ、纔《わず》か一日にして左のごとくの高序《こうじょ》を賜《たま》わりたるは、実に予の望外《ぼうがい》なり。

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 木村芥舟先生は旧幕府《きゅうばくふ》旗下《きか》の士にして摂津守《せっつのかみ》と称し時の軍艦奉行《ぐんかんぶぎょう》たり。すなわち我|開国《かいこく》の後、徳川政府にて新《あらた》に編製《へんせい》したる海軍の長官《ちょうかん》なり。
 日本海軍の起源《きげん》は、安政初年の頃《ころ》より長崎にて阿蘭人《オランダじん》の伝《つた》うるところにして、伝習《でんしゅう》およそ六七年、学生の伎倆《ぎりょう》も略《ほぼ》熟《じゅく》したるに付《つ》き、幕議《ばくぎ》、遠洋《えんよう》の渡航を試《こころみ》んとて軍艦《ぐんかん》咸臨丸《かんりんまる》を艤装《ぎそう》し、摂津守を総督《そうとく》に任じて随行《ずいこう》には勝麟太郎《かつりんたろう》(今の勝|安芳《やすよし》)以下長崎|伝習生《でんしゅうせい》を以てし、太平洋を絶《わた》りて北米《ほくべい》桑港《サンフランシスコ》に徃《ゆ》くことを命じ、江戸湾を解纜《かいらん》したるは、実に安政《あんせい》六年十二月なり。首尾《しゅび》能《よ》く彼岸《ひがん》に達して滞在《たいざい》数月、帰航の途《と》に就《つ》き、翌年|閏《うるう》五月を以て日本に安着《あんちゃく》したり。
 これぞ我大日本国の開闢《かいびゃく》以来《いらい》、自国人の手を以て自国の軍艦《ぐんかん》を運転《うんてん》し遠く外国に渡《わた》りたる濫觴《らんしょう》にして、この一挙《いっきょ》以て我国の名声《めいせい》を海外諸国に鳴らし、自《おのず》から九鼎《きゅうてい》大呂《たいりょ》の重《おもき》を成したるは、事実に争うべからず。就中《なかんずく》、木村摂津守の名は今なお米国において記録《きろく》に存し、また古老《ころう》の記憶《きおく》する処《ところ》にして、我海軍の歴史に堙没《いんぼつ》すべからざるものなり。
 当時、諭吉は旧《きゅう》中津藩《なかつはん》の士族にして、夙《つと》に洋学《ようがく》に志し江戸に来て藩邸内《はんていない》に在りしが、軍艦の遠洋航海《えんようこうかい》を聞き、外行《がいこう》の念《ねん》自《みず》から禁ずる能《あた》わず。すなわち紹介《しょうかい》を求めて軍艦奉行《ぐんかんぶぎょう》の邸《やしき》に伺候《しこう》し、従僕《じゅうぼく》となりて随行《ずいこう》せんことを懇願《こんがん》せしに、奉行は唯《ただ》一面識《いちめんしき》の下《もと》に容易《たやす》くこれを許《ゆる》して航海《こうかい》の列《れつ》に加わるを得たり。航海中より彼地《かのち》に至《いた》りて滞在《たいざい》僅々《きんきん》数箇月なるも、所見《しょけん》所聞《しょぶん》一として新《あらた》ならざるはなし。多年来《たねんらい》西洋の書を読《よ》み理《り》を講《こう》じて多少に得たるところのその知見《ちけん》も、今や始めて実物《じつぶつ》に接して、大《おおい》に平生《へいぜい》の思想《しそう》齟齬《そご》するものあり、また正しく符合《ふごう》するものもありて、これを要《よう》するに今度の航海は、諭吉が机上《きじょう》の学問《がくもん》を実《じつ》にしたるものにして、畢生《ひっせい》の利益これより大なるはなし。而《しこう》してその利益はすなわち木村|軍艦奉行《ぐんかんぶぎょう》知遇《ちぐう》の賜《たまもの》にして、終《つい》に忘《わす》るべからざるところのものなり。芥舟先生は少小より文思《ぶんし》に富《と》み、また経世《けいせい》の識《しき》あり。常に筆硯《ひっけん》を友として老《おい》の到るを知らず。頃日《けいじつ》脱稿《だっこう》の三十年史は、近時《きんじ》およそ三十年間、我|外交《がいこう》の始末《しまつ》につき世間に伝《つた》うるところ徃々《おうおう》誤謬《ごびゅう》多きを憂《うれ》い、先生が旧幕府の時代より身《み》躬《みず》から耳聞《じぶん》目撃《もくげき》して筆記に存《そん》するものを、年月の前後に従《したが》い順次《じゅんじ》に編集《へんしゅう》せられたる実事談《じつじだん》なり。近年、著書《ちょしょ》の坊間《ぼうかん》に現わるるもの甚《はなは》だ多し。その書の多き、随《したがっ》て誤聞《ごぶん》謬伝《びゅうでん》もまた少なからず。殊《こと》に旧政府時代の外交《がいこう》は内治に関係《かんけい》することもっとも重大《じゅうだい》にして、我国人の記念《きねん》に存《そん》すべきものもっとも多きにもかかわらず、今日すでにその事実《じじつ》を失うは識者の常に遺憾《いかん》とするところなりしに、この書|一度《ひとた》び世に出《い》でてより、天下《てんか》後世《こうせい》の史家《しか》をしてその拠《よ》るところを確実《かくじつ》にし、自《みず》から誤《あやま》りまた人を誤るの憂《うれい》を免《まぬ》かれしむるに足《た》るべし。
 先生、諭吉に序文《じょぶん》を命《めい》ず。諭吉は年来《ねんらい》他人の書に序《じょ》するを好《この》まずして一切その需《もとめ》を謝絶《しゃぜつ》するの例なれども、諭吉の先生における一|身上《しんじょう》の関係《かんけい》浅《あさ》からずして旧恩《きゅうおん》の忘るべからざるものあり。よってその関係《かんけい》の大概《たいがい》を記《しる》して序文に代《か》う。明治二十四年十月十六日、木村旧軍艦|奉行《ぶぎょう》の従僕福沢諭吉 誌《しるす》
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 同二十六年七月、予|腸窒扶斯《ちょうチフス》に罹《かか》りたるとき、先生、特《とく》に駕《が》を抂《まげ》られ、枕辺《まくらべ》にて厚く家人に看護《かんご》の心得《こころえ》を諭《さと》され、その上、予が自《みず》から搗《つ》きたる精米《せいまい》あり、これは極古米《ごくこまい》にして味軽く滋養《じよう》も多ければ、これを粥《かゆ》としまた鰹節《かつぶし》を煮出《にだ》して用《もちう》れば大に裨益《ひえき》あればとて、即時《そくじ》、价《しもべ》を馳《は》せて贈《おく》られたるなど、余は感泣《かんきゅう》措《お》くこと能《あた》わず、涕涙《ているい》しばしば被《ひ》を沾《うるお》したり。また先生の教《おしえ》に従《したが》いて赤十字社病院に入《いり》たる後も、先生|来問《らいもん》ありて識《し》るところの医官《いかん》に談じ特に予が事を託《たく》せられたるを以て、一方《ひとかた》ならず便宜《べんぎ》を得たり。数旬を経《へ》て病《やまい》癒《いえ》て退院《たいいん》せんとする時、その諸費を払《はら》わんとせしに院吏《いんり》いう、君の諸入費《しょにゅうひ》は悉皆《しっかい》福沢氏より払《はら》い渡《わた》されたれば、もはやその事に及ばずとなり。
 後《のち》また数旬を経《へ》て、先生予を箱根《はこね》に伴《ともな》い霊泉《れいせん》に浴《よく》して痾《やまい》を養わしめんとの事にて、すなわち先生|一家《いっか》子女《しじょ》と共に老妻《ろうさい》諸共《もろとも》、湯本《ゆもと》の福住《ふくずみ》に寓《ぐう》すること凡《およそ》三旬、先生に陪《ばい》して或は古墳《こふん》旧刹《きゅうさつ》を探《さぐ》り、また山を攀《よ》じ川を渉《わた》り、世の塵紛《じんふん》を忘れて神洞《しんどう》仙窟《せんくつ》に遊ぶがごとく、大《おおい》に体力《たいりょく》の重量を増《ま》すに至れり。嗚呼《ああ》、先生|何《なん》ぞ予を愛《あい》するの深くして切《せつ》なるや。予何の果報《かほう》ありて、かかる先生の厚遇《こうぐう》を辱《かたじけの》うして老境《ろうきょう》を慰《なぐさ》めたりや。要するに、予の半生《はんせい》将死《しょうし》の気力を蘇《そ》し、やや快《こころよ》くその光陰《こういん》を送り、今なお残喘《ざんぜん》を延《の》べ得たるは、真《しん》に先生の賜《たまもの》というべし。
 以上|記《き》するところは、皆予が一身《いっしん》一箇《いっこ》の事にして、他人にこれを示《しめ》すべきものにあらず。またこれを記《しる》すとも、予が禿筆《とくひつ》、その山よりも高《たか》く海よりも深《ふか》き万分の一ツをもいい尽《つく》すこと能《あた》わず。またせめては先生の生前《せいぜん》において、予がいかにこの感泣《かんきゅう》すべきこの感謝《かんしゃ》[#「感謝」は底本では「感射」]すべき熱心《ねっしん》と、いかにこの欣戴《きんたい》し惜《お》かざる衷情《ちゅうじょう》とを具《つぶ》さに言《い》いも出《いで》ずして今日に至りたるは、先生これを何《なん》とか思われんなどと、一念《いちねん》ここに及ぶ毎《ごと》に、胸《むね》裂《さ》け腸《はらわた》砕《さ》けて、真《しん》に悔恨《かいこん》已《や》む能《あた》わざるなり。



底本:「明治十年丁丑公論・瘠我慢の説」講談社学術文庫、講談社
   1985(昭和60)年3月10日第1刷発行
   1998(平
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