ぼく》額《ひたい》を蹙《しか》め、有《あ》り有り、大変《たいへん》が有りたりという。先生手を挙《あ》げて、そは姑《しば》らく説《と》くを休《や》めよ、我まずこれを言わん、浮浪《ふろう》の壮士《そうし》が御老中《ごろうじゅう》にても暗殺《あんさつ》せしにはあらざる歟《か》と。老僕聞て大に驚《おどろ》き、過《すぐ》る三月三日、桜田《さくらだ》の一条《いちじょう》を語《かた》りければ、一船ここに至りて皆はじめて愕然《がくぜん》たり。
 予が新銭座《しんせんざ》の宅《たく》と先生の塾《じゅく》とは咫尺《しせき》にして、先生毎日のごとく出入《しゅつにゅう》せられ何事も打明《うちあ》け談ずるうち、毎《つね》に幕政《ばくせい》の敗頽《はいたい》を嘆《たん》じける。間《ま》もなく先生は幕府|外国方翻訳御用《がいこくかたほんやくごよう》出役《しゅつやく》を命ぜらる。或日、先生、役所よりの帰途《きと》、予が家に立寄《たちよ》り、今日|俸給《ほうきゅう》を受取りたりとて、一歩銀《いちぶぎん》廿五両|包《づつみ》二|個《こ》を手拭《てぬぐい》にくるみて提《さ》げ来られ、予が妻《さい》に示《しめ》し、今日《きょう》貰《もらっ》て来ました、勇気《ゆうき》はこれに在りとて大笑《たいしょう》せられたり。
 また或時《あるとき》、市中より何か買物《かいもの》をなして帰《かえ》り掛《が》け、鉛筆《えんぴつ》を借り少時《しばらく》計算《けいさん》せらるると思ううち、アヽ面倒《めんどう》だ面倒だとて鉛筆を抛《なげう》ち去らる。
 或日、老僕《ろうぼく》、先生の家に至りしに、二三の来客《らいかく》ありて、座敷《ざしき》の真中に摺鉢《すりばち》に鰯《いわし》のぬたを盛《も》り、側《かたわ》らに貧乏徳利《びんぼうとくり》二ツ三ツありたりとて、大《おおい》にその真率《しんそつ》に驚き、帰りて家人《かじん》に告《つ》げたることあり。
 先生は白皙《はくせき》長身《ちょうしん》、一見して皆その偉人《いじん》たるを知る。されば先生は常に袴《はかま》をも着せず、一書生《いちしょせい》の風体《ふうたい》なるにかかわらず、予が家の婢僕等《ひぼくら》皆|尊敬《そんけい》して、呼ぶに先生を以てし、門番《もんばん》、先生を見れば俄《にわ》かに衣を纒《まと》いてその裸体《らたい》を蔽《おお》いて礼《れい》を為《な》せり。
 先生の親
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