ど!』
その最後の言葉が周圍の樹立にガンと響く。
『おら、金なんぞ鐚一文もいらねえから、茂右衞門の旦那のところへ行つてそいつてくろ。しんが命返してよこせといつてくろ。しんが命返してよこせと談判してくろ。さア今ぢき行つて談判してくろ』
『お父つアんよ、早く來うよ!……』十ほどの女の兒がさう叫びながらワタ/\走つて來る、『姉ちやんが惡くなつたから、はやく來うよ、はやく來うよ。』
そして父親の片手をぐい/\引つ張る。
『うるせい、だれが行くもんか。』と父親は子供の手を押しのける。
『さう言はねで、はやく行つてやれよ、なアお父つアん。』
父親はよろ/\と立ち上り、門の方へ出て行く。父親は、自分の家の方へ曲らうとして、ふいにあべこべの方へ行く。
『お父つアん、どこサ行くだよ、おら家はこつちだよ。』
女の兒が、ハラ/\した聲であとから呼びかける。しかし父親は、梟の啼いてゐる杉森の屋敷の方へ、よるべのない足どりで歩いて行く。
七
おしんの父親は、茂右衞門の門《もん》の扉を、足で力任せに蹴る。ドーン、ドーンといふ重い音が、森の中に反響する。そして怒鳴る。
『門を開けろ、茂右衞門、門を開けろ!』
『お父つアんよー、お父つアんよー。』
女の兒はワー/\泣きながら、父親の背後からぢだんだ踏んで、父を呼ぶ。
女達が二三人、そこへ走つて來る。
『おみよや、はやくこつちサ來うよ。お父つアんはな醉つぱらつてんだから構はねえで、はやく姉ちやんとこサ行けよ、姉ちやんが呼んでるよ。』
しかし彼女はそれを耳にも入れず、
『お父つアんよー、お父つアんよー。』とわめきつゞける。と、一人の女が、全身で門の扉にぶつかつてゐる父親の首根へ、ぐいと力限り抱きつき、昂奮と涙で顫へてゐる聲で、その耳元へ叫ぶ。
『お父つアんよ。おみよが、おみよが夢中で呼んでんでねえか。はやく家サ歸つてやれよ。おしんさんが惡いだよ、おしんさんが死にさうだよ。』
父親はそこで、外の女達に兩手を掴まへられ、尻を押しこくられて、家の方へ連れ戻されて行く。彼は、ふんぞりかへり、口から泡をふきながら苦しさうな息を吐き吐き、ガクリ/\と足を運ぶ。女の兒はその前に立ち、はだしの小さな足でほこりをぷか/\立てながら、ウーウーとうなるやうに泣いて行く。
『おみよや、はやく姉ちやんとこサ行けよ、かけて行けよ。』
さう言はれて彼女は、髮をふり立て、ワタ/\と四五歩走り出す。が急にあとを振りかへり、そつくりかへつて歩いて來る父親を見上げて、またワーツと泣き出す。
『やれ/\可哀相に、みんなおみよが心になつてやれよ。』
『ほんとになアー、ほんとになアー……』
『泣かねえで、はやくかけて行けよ。お父つアんはぢきあとから行くかんなア。』
おしんの家では、近所の人達が、土間に、座敷に、おしんの部屋に、それぞれ集り、みんな影のやうにぢつとして默つてゐる。その中に、おしんの母親の、息も切れ/″\におしんの名を呼びつゞけてゐる聲だけがある。
父親は、女達に持ち運ばれるやうにして、土間へ入ると、上り框へドサリと腰を下し、そこより動かうとしない。
『はやく、おしんさんが傍サ行つてやれよ。』
『はやくよオ、はやくよオ……』
と、父親は、いきなり肌をぬき、肘を張り、眼をギラ/\させ、土間の暗い隅を睨めながら、
『しんよ、しんよ、まだ死なねえか。構はねえからサツサと死んでくろ! 今夜のうちに、茂右衞門の野郎等を叩き殺して、あの家を燒き拂つてやんだから、はやく死んでくろ、はやく死んでくろ!』
割れた太い聲の中に、妙に鋭どい響きの混つたそのわめき聲は、森と更けた村の往還へかうしていつ迄も響き渡つてゐた。
底本:「茨城近代文学選集2[#「2」はローマ数字、1−13−22]」常陽新聞社
1977(昭和52)年11月30日発行
初出:「早稲田文学」
1926(大正15)年8月
入力:林 幸雄
校正:富田倫生
2005年12月17日作成
青空文庫作成ファイル:
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