乏籤を引いたのだと思つた。兎に角もう見殺しにしてゐる心が厭になつた。早く何でもなくさつぱりと死んで呉れゝばいゝと念じながら畑を横切つて裏から家へ入つた。
ワンワンと呻り鳴いてゐる蚊の群を分けて暗い土間の中へ立つと、おさわは親爺の枕元へ坐つてその額を水で冷やしてゐた。手ランプが頼りなくともつてゐた。由藏はさうしてゐるおさわを見るとむかむかとした。
「おさわ、日が暮れたのを知んねえか」
由藏はさう怒鳴つてそこらのものを蹴飛ばした。
「そんでもなア、爺ははア駄目だよ、こゝへ來て見ろよア」とおさわは、わくわくしながら言つた。彼はその聲の調子に少し驚かされた。裸足のまゝ兩膝を立てゝ枕元へ這つて行つた。
親爺の顏は眼なんぞは隱れてしまつた程に腫れ上つてゐた。下唇がだらりと下つて、上顎の二本の歯が牙のやうに飛び出してゐた。ゴーツ、ゴーツといびきのやうな息をした。
由藏はそれを見ると「いけねえ、いけねえ」とつぶやきながら土間へ戻つてそこに突つ立つた。家の中をぐるりと見※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]した。裏へ出て見た。北の空の黒雲は黒潮が流れたやうにもう頭の上まで延びて來てゐた。雷光が黒雲の輪廓をとつて鋭どく光つた。
由藏はまた土間へ立つた。
「おさわ」と訳もなく呼んで見た。
おさわは顎で「早く早く」と由藏を傍へ呼んだ。彼はそこから動かなかつた。そこにゐても親爺の呼吸が段々間遠になつて行くのがよく解つた。凹んだ左の眼だけが見えるやうに坐つてゐるおさわの横顏が髑髏のやうに見えて來た。
「馬鹿、畜生!」由藏はわけもなく口の中で叫んだ「死んぢやいけねえだ。俺んとこで死ぬなんてことがあるもんでねえだ、そんな死に方つてあるもんでねえだ!」
由藏は、親爺が死ぬときは、仇を取つたやうに胸の透くやうな氣持ちがするに違ひないと思つてゐた。それだのにこの厭な氣持ちはどうしたのだらうと思つた。彼はやうやく、自分が希つてゐた親爺の死に方はかうしたものでなかつたことに氣づいた。けれどそんなら、どんな死に方であつたらいゝのかそれも解らなかつた。
由藏は、もう既にそこへ忍び込んで來てゐる死に神を追ひ出すやうな心構ひをして、もつと何かを叫ばうとした。けれど死に神はちやんと親爺の枕元へ坐つて、親爺と一緒にお前のことも連れ出すつもりだといふやうな身構ひに、親爺の顏と等分にこつちの顏も睨めるのに怯えてしまつた。
やがて親爺は二度ほどがくがくと下顎を動かすと呼吸を止めた。おさわは由藏の顏をぢつと見てからまた親爺の顏に見入つた。
由藏の全身には針のやうな逆毛がざらざらに立つたやうな氣がした。それは由藏の身体を全く硬張らしてしまつた。彼は眼球が飛び出したのかと思はれるやうに、兩眼をギロリと開いて、家の隅の暗い所を見詰めてゐた。
由藏はボロ布を入れて置いた箱を毀してそれで棺を作つた。彼は、その夜のうちに親爺の屍を土に埋めてしまはないと、親爺が言つた通り死に神がとりついて來て自分を殺すやうな氣がして來たからであつた。ひとつは自分が手にかけて親爺を殺したやうに感じられて來たので、その罪を一刻も早く土の中に隱さねばならないやうに思はれて來たからであつた。
立棺を作つて屍を入れた。と、頭の半分がはみ出した。彼は荒繩を屍の膝の下から項へ掛けてぎゆつとしめた。それから顏を下に頭の後部を蓋で押しつけて釘を打ちつけた。打ちつけてゐるうちに古い板はバリツと割れた。親爺の白髮のうなじが現はれてぶるると顫へた。
「おさわ、この頭をおさへてゐねえか」と由藏は怒声で言つて、傍につつ立つてゐるおさわの脛を蹴つた。
太い荒繩で棺を背負つて外へ出たときはもう夜中であつた。黒雲は空の七分を蔽つてゐた。雷光が閃めく度に四邊が青く光つた。生ぬるい風が道端の草をざわつかせた。彼は村の蘭※[#「てへん+茶」、71−11]場へ持つて行くつもりであつた。
二丁程行つて彼は棺を埋める穴を掘る為めの萬能を忘れて來たことに氣づいた。引き返して萬能を取ると、
「おさわ、貴樣もついて來い」と言つた。
おさわはむしろの上にべたんと坐つたまゝ阿呆のやうに開いた口を動かしもしなかつた。
道の半分程まで來たとき、頭の天辺でだしぬけに雷が鳴つた。「うヽヽヽヽ」といふ音が雲の上をごろごろ轉げ※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]つてから、東の方へ「ヅーン」と消えて行つた。由藏はもう少しで尻餅をつくところを辛うじてその場に立ちすくんだ。四邊の闇がぐるぐると渦を卷き始めたやうな氣がして來た。
汗が襟首から胸へたくたく流れた。由藏は眼が見えなくなつたのぢやないかと思つた。彼はめくら滅法に歩いた。けれど道は決して間違ひやしないといふ自信はあつた。肩の棺はます/\重くなつて來たが、道端に棺を下して休まうなどゝは思ひもよらなかつた。
やがて大粒の雨が四邊の樹の葉を打つてポツリポツリ降つて來た。つゞいて二閃三閃の雷光と共に大地を叩くやうな雷鳴がした。そしてものの一丁と歩かないうちに、大粒の雨は黒い棒のやうになつて一分の隙間もなく降り注いで來た。土の香がそこらに漂つた。
雨の「ワー」といふ音は、尖り切つた由藏の神経をかなり柔らげた。けれどその雨音は少しの高低もない平らな音であるだけ、やがて何の物音もない世界と同じ世界に返した。
親爺が棺の中からぬつと腕を差し延べて、咽喉の辺りを撫でるやうな氣が幾度もした。その度に彼は、うなじから咽喉に流れる雨を平手で拭つた。
と、後から骨ばかりの親爺がひよろひよろついて來るやうな氣がして來た。ぴたりぴたりといふ跫音が堪らなく氣になつた。彼は振り向いて見る勇氣は無論なかつた。先へ走ることも出來なかつた。やうやくその跫音は自分の草履の音だとわかつたとき彼は草履を捨てた。
地の底を歩いてゐるのか、黒雲の中を泳いでゐるのか解らないやうな氣持ちがしばらくつゞいた。背負つてゐる棺も、もう重いのか軽いのか解らなかつた。
雨は黒い棒の束となつて注いだ。それを絶ち切るやうに雷光がひつきりなしに閃めた。雷鳴はドヽヽヽヽと響きのない音をつゞけた。
狹い田甫を渡つて蘭※[#「てへん+茶」、72−18]場へ着いた。
由藏は棺を下さうとして兩足をうんと踏ん張つた。そのとたん、棺の中の親爺が手足を突つ張つたかのやうに棺がぐんと重くなつた。由藏はそのまゝべたりと尻餅をついた。同時に繩が切れて棺は横倒しに倒れた。由藏は立つて棺を起した。と、家を出るとき慌てゝ打ちつけた蓋の釘が、親爺の頭に押し拔かれてゐた。ぐらりと動いた白髮のうなじが見えた。雨は棺の中にもどーつと流れ込んだ。彼は慌てゝ萬能の峯で釘を打ちつけた。
由藏は蘭※[#「てへん+茶」、73−5]場の北の隅の藪の中を掘り始めた。軽い萬能では繁り盛つてゐる夏草の根が容易に切れなかつた。辛うじて三尺四方位の穴を一尺ほど掘つた。しかしそれからはどんなに掘つても穴は深まらなかつた。周圍に掘り上げた土が瀧なす雨に押し流されて、掘る傍から穴の底を埋めて行く。
由藏はそれでも根氣よく掘つた。泥が身体中にまみれて、まるで土の中から出て来た盲者のやうな姿になつた。眼だけが火のやうに光つた。
耳をつんざくやうな雷鳴が二つつゞけて鳴つた。同時に雨はどーつと瀧のやうな音を立てゝ注いで來た。腰まで掘り下げた穴にはまた泥が一層ひどく流れ込んで來た。その泥は穴の周圍の泥が流れ込むのではなく、空から雨と一緒に降つて來るやうに思はれて來た。頭にも項にも胸にも腰にも泥の雨は注いだ。
由藏はもういくら掘つても無駄だと思つた。ぐつぐつしてゐると、自分の身体まで泥の雨に埋められて了ふやうな氣がして來た。
彼は棺を抱えて來て穴の中へ入れた。棺は半分しか穴の中に隱れなかつた。彼はあと半分は土を盛つて隱さうとした。
しかし雨は棺の上に盛つた土を直ぐに洗ひ落した。彼は草ごと土を掘り取つては棺の上に盛つた。と萬能の先が棺の蓋にがたりと当つた。蓋はまたばりゝと割れた。キラツと閃めく雷光が、親爺の白髮のうなじを青くはつきりと見せた。
由藏の頭は少しぼーつとなつて來た。
由藏はもう萬能を棄てた。そしてまるで熊のやうな恰好に、背を円くし十本の指を熊の爪のやうに彎曲さして、それで土を掘つては親爺の項の上にかけた。次に兩手の土を持つて行つたときは、先の土はすつかり洗ひ落されてゐた。それでも彼は土を盛つた。
けれど、いくら土を盛つても盛つても親爺のうなじは見えなくならなかつた。
底本:「茨城近代文学選集2[#「2」はローマ数字、1−13−22]」常陽新聞社
1977(昭和52)年11月30日発行
初出:「早稲田文学」
1923(大正12)年5月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
※「來」と「来」、「聲」と「声」、「邊」と「辺」の混在は、底本通りです。
※底本では「纜」の右上は、「ケ」のようにつくられています。この異なりが、JIS X 0208 の規格票でいう「デザインの差」に該当するのか否か、判断が付きませんでしたが、ここでは「纜」としておきました。
入力:林 幸雄
校正:富田倫生
2005年12月17日作成
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