味だと思つた。
「見殺しにしてやれ」とまた口の中でつぶやいた。外のどんな方法よりも酷い懲しめ方が見つかつたことを由藏は面白がつた。
 由藏は病人一人を置いておさわと一緒に出稼ぎに出た。さうして五日も七日も家を明けた。さうして家へ歸つて來る途中毎に、親爺が死んでゐてくれゝばいゝと思つた。しかし家の前に立つたとき、ほんとうに親爺が死んでゐたらと思ふと何んだかいやーな氣持ちにもなつた。それではあんまり飽氣ないやうにも思はれた。
 親爺は思ひの外の元氣で床の上に起き直つてゐたりした。それを見ると由藏はまた「畜生!」と思つた。おさわが親爺の為めに熱いお茶を汲んだりする手を叩き下したりした。そして次の日はまた二人で出て行つた。
 さうして二月程過ぎた。眞夏の太陽は地平線を離れると直ぐに燒きつくやうな熱を原の上に注いだ。草も木の葉もぐつたりとうなじを垂れた。さうして親爺もたうとう身動きも出來ない程に弱つた。夜も晝も力のない声で呻り通した。
 由藏は少しよわつた。懲らしめてゐたつもりの親爺からあべこべに懲らしめられてゐるやうな氣がして來た。
「おれが死んだら貴樣のこともとり殺してやるど」親爺はそんなことを言つた。
 由藏は默つて親爺の顏を偸み見た。
「何か藥でも買つて來てやれな」とおさわが言つた。
「やかましい」と由藏はおさわにはむきになつた。「手前なんぞ知つたこつぢやねえ、引つこんでやがれ、豚!」
 実は由藏も藥位買つてやらねばなるまいと思つてゐた。が、おさわからさう言はれると無暗に腹が立つた。彼はおさわを病人の傍へ寄りつけもしなかつた。
 親爺はその二日前から顏や手足が透き通るやうにむくんで來た。そしてうめく声がたまらなく不吉な調子になつて來た。由藏は苛々し出した。そしておさわを訳もなくひつぱたいたりした。
 しかし彼は藥を買ひには行かなかつた。
「自分勝手に親面をしやがつて、俺にや何處の馬の骨だかもわかりやしねえ、親が聞いてあきれらア」
 由藏はその朝もそんなことをおさわに言つて畑へ出て行つたのであつた。
 由藏は萬能を擔いでかへる道々、生れてこの年まで二年と一緒に暮したことのないあの親爺は一体自分にとつて何だらうと考へた。彼にはどうしても、何かの間違ひであゝした人間の死に水をとつてやらねばならないやうになつたのだとしか考へられなかつた。自分はこの世の中でも一番馬鹿々々しい貧乏籤を引いたのだと思つた。兎に角もう見殺しにしてゐる心が厭になつた。早く何でもなくさつぱりと死んで呉れゝばいゝと念じながら畑を横切つて裏から家へ入つた。
 ワンワンと呻り鳴いてゐる蚊の群を分けて暗い土間の中へ立つと、おさわは親爺の枕元へ坐つてその額を水で冷やしてゐた。手ランプが頼りなくともつてゐた。由藏はさうしてゐるおさわを見るとむかむかとした。
「おさわ、日が暮れたのを知んねえか」
 由藏はさう怒鳴つてそこらのものを蹴飛ばした。
「そんでもなア、爺ははア駄目だよ、こゝへ來て見ろよア」とおさわは、わくわくしながら言つた。彼はその聲の調子に少し驚かされた。裸足のまゝ兩膝を立てゝ枕元へ這つて行つた。
 親爺の顏は眼なんぞは隱れてしまつた程に腫れ上つてゐた。下唇がだらりと下つて、上顎の二本の歯が牙のやうに飛び出してゐた。ゴーツ、ゴーツといびきのやうな息をした。
 由藏はそれを見ると「いけねえ、いけねえ」とつぶやきながら土間へ戻つてそこに突つ立つた。家の中をぐるりと見※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]した。裏へ出て見た。北の空の黒雲は黒潮が流れたやうにもう頭の上まで延びて來てゐた。雷光が黒雲の輪廓をとつて鋭どく光つた。
 由藏はまた土間へ立つた。
「おさわ」と訳もなく呼んで見た。
 おさわは顎で「早く早く」と由藏を傍へ呼んだ。彼はそこから動かなかつた。そこにゐても親爺の呼吸が段々間遠になつて行くのがよく解つた。凹んだ左の眼だけが見えるやうに坐つてゐるおさわの横顏が髑髏のやうに見えて來た。
「馬鹿、畜生!」由藏はわけもなく口の中で叫んだ「死んぢやいけねえだ。俺んとこで死ぬなんてことがあるもんでねえだ、そんな死に方つてあるもんでねえだ!」
 由藏は、親爺が死ぬときは、仇を取つたやうに胸の透くやうな氣持ちがするに違ひないと思つてゐた。それだのにこの厭な氣持ちはどうしたのだらうと思つた。彼はやうやく、自分が希つてゐた親爺の死に方はかうしたものでなかつたことに氣づいた。けれどそんなら、どんな死に方であつたらいゝのかそれも解らなかつた。
 由藏は、もう既にそこへ忍び込んで來てゐる死に神を追ひ出すやうな心構ひをして、もつと何かを叫ばうとした。けれど死に神はちやんと親爺の枕元へ坐つて、親爺と一緒にお前のことも連れ出すつもりだといふやうな身構ひに、親爺の顏と等分にこつちの顏も睨めるの
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