う》さんも、夜おそく帰って来ましたので、法師はもう、寝ていることと思い、法師の部屋《へや》へ見にもいかなかったのでした。それで法師のその夜のことは、だれもしらずにしまいました。もちろん法師は、なにも話しませんでした。
つぎの夜でありました。法師はれいのとおり、寝間《ねま》の前の、えんがわにいると、昨夜《さくや》のとおり、重《おも》い足音が裏門《うらもん》からはいって来て、法師をつれていきました。大げんかんの前、召使《めしつか》いの案内《あんない》、長いろうか、大広間、そして、しんといならぶ人びとの前、そこで法師は昨夜とおなじように、壇《だん》ノ浦《うら》の物語《ものがたり》をひきました。そうして、人びとは、またも泣き、むせび、悲しみました。法師は深い感激《かんげき》にうたれて、寺へ帰って来ました。
すると、寺ではめくらの法師が、だれの案内《あんない》もなしに寺をぬけだしていることを知りました。
つぎの朝、法師はお坊さんの前へよばれて、やさしくいいきかされました。
「えらく心配《しんぱい》しましたぞ。めくらがひとり出《で》をするのは、わけても夜中にでるのは、なによりあぶないことじゃ。どういうわけで、出ていくのか。わしは寺男《てらおとこ》にさんざんさがさせたのじゃ。いったいどこへいきなさるのだね。」
「これは申《もう》し上げられませぬ。てまえのかってな用事《ようじ》をたしにでかけたのです。どうもほかの時刻《じこく》では、つごうがわるいものですから。」
法師はただそう答えました。
お坊さんは、法師のようすがあまりへんなので、これはすこしあやしい、もしかしたら悪霊《あくりょう》にでもとりつかれたのかもしれない、と思って、それ以上《いじょう》は、ききただそうとしませんでした。そのかわり、ひとりの寺男に、ひそかに法師のようすを見はらせることにして、もし夜中にそとへでていくようなことがあったら、あとをつけろといいつけておきました。
すると、はたしてその夜も、法師はびわ[#「びわ」に傍点]を持って、寺をひとり出ていきました。寺男はちょうちんに灯《ひ》をいれて、そのあとをつけていきました。その夜は、雨もよいの陰気《いんき》なくらい晩《ばん》でありました。しかし、めくらの法師は、まるで目あきのようにさっさと歩き、いつか年《とし》よりの寺男をあとに、くらがりの中へきえてしまいました。寺男は、そのように早く歩く法師を、ふしぎにも気味悪くも思いました。
寺男は法師がたちよりそうな家を、一けん一けんさがしまわりました。が、どこにもいませんでした。寺男はこまって、ひとり、ぼつぼつ浜辺《はまべ》づたいに寺の方へ帰ってきました。と、おどろいたことには、狂《くる》ったようにかき鳴《な》らすびわの音が、どこからか聞えてくるではありませんか。しかも、そのびわの音は、まちがいなく法師のひくものでありました。
寺男は、ただ意外《いがい》に思いながら、音のするほうへ近づいていきました。いったところは平家《へいけ》一|門《もん》の墓場《はかば》でありました。いつか雨は降《ふ》りだしていました。一寸先《いっすんさき》見えぬ闇夜《やみよ》、寺男は、両足《りょうあし》が、がくがくふるえましたが、勇気《ゆうき》をつけて、びわの音《ね》のする墓場《はかば》の中へはいっていきました。そして、ちょうちんの灯《ひ》をたよりに、法師をさがしました。するとこれはまた意外《いがい》のことに、法師がただひとり、安徳天皇《あんとくてんのう》のみささぎの前にたん座《ざ》して、われを忘れたように、一心《いっしん》ふらんに、びわ[#「びわ」に傍点]を弾《だん》じ、壇《だん》ノ浦《うら》合戦《かっせん》の曲《きょく》を吟《ぎん》じているのでありました。そうして、法師の左右《さゆう》には、数《かず》しれぬ青《あお》い灯《ひ》、鬼火《おにび》がめらめらと、もえていたのでありました。寺男は、こんなに多いさかんな鬼火を、生まれてはじめて見るのでありました。寺男は一時は声もでないほどにおどろきましたが、やっと、心をおちつけて、
「法一さん、法一さん、あなたは、なにかにばかされていますよ。しっかりしなさい。」
と、耳もとでいいました。
しかし、法師は、寺男のことばをききいれるどころか、ますます一心《いっしん》に、ますます高らかな声で、吟《ぎん》じつづけています。
「法一さん、法一さん、どうなされたんです。こんなところで、なんのまねをしているんです?」
すると、法師は怒《おこ》ったように寺男《てらおとこ》を制《せい》して、
「しずかになさい。だまっていてくれ。高貴《こうき》な方々《かたがた》の前だ、ご無礼《ぶれい》にあたるぞ。」
寺男は、これには、あっけにとられるばかりでした。もう、しようがないので、寺男は力ずくで法師をひきたて、その手をしっかりにぎって、むりやりに、寺へひっぱってきました。
寺の坊《ぼう》さんは、びしょぬれになっている法師の着物をきかえさせ、あたたかいものを食《た》べさせて、できるだけ心をおちつかせました。なにかに心をうばわれたようになっていた法師は、そこでようやくわれにかえりました。そして、お坊さんや寺男が、じぶんのために、どんなに心配《しんぱい》をし、骨《ほね》をおったかをしり、たいへんすまないように思い、そこで、なにもかも、お坊さんにうちあけてしまいました。
お坊さんはそれをきくと、
「法一さん、それは、おまえのふしぎなほどに、たくみなびわ[#「びわ」に傍点]の腕《うで》まえが、おまえをそういうところへみちびいたのじゃ。芸《げい》ごとの奥《おく》に達《たっ》すると、そういうことがあるもので、これはおまえの芸道《げいどう》のためには、よろこばしいことじゃが、しかし、あぶないところじゃった。昨夜《ゆうべ》、おまえは平家《へいけ》の墓場《はかば》の前で、雨にぬれて、すわっていたそうじゃ。おまえは、なにかまぼろしを見て、そうしていたのじゃろうが、いつまでも、そうしていたら、平家の亡者《もうじゃ》の中へひきこまれ、ついには八《や》つざきにされてしまうところじゃった。もう、どこへもいってはならぬぞ。わしは、今夜《こんや》も法事《ほうじ》で、るすをするが、おまえが使《つか》いのものに、つれていかれないように、今夜は、おまえのからだを、よくまもっておかねばならぬわい。」
そこで、法師をはだかにして、ありがたい、はんにゃしんきょうの経文《きょうもん》を、頭《あたま》から胸《むね》、胴《どう》から背《せ》、手《て》から足《あし》、はては、足《あし》のうらまで一|面《めん》に墨《すみ》くろぐろと書《か》きつけました。そしてまた、着物をきせて、お坊《ぼう》さんは、
「わしは、まもなくでかけるが、おまえはいつものえんがわにすわっていなされ。やがて、れいの武士《ぶし》が来て、おまえの名をよぶだろうが、おまえは、どんなことがあっても、だんじて返事《へんじ》をしてはならぬ。万一《まんいち》返事をしたなら、おまえのからだは、ひきさかれてしまうのだ。また人のたすけをよんでもならぬぞ。だれもたすけることはできぬのだからな。そうして、おまえがりっぱに、わしのいいつけをまもりおおせたなら、もう、おまえのからだから、危険《きけん》なことは消《き》えさってしまう。おまえはもう、おそろしいまぼろしを、見ないようになるのじゃ。」
と、ねんごろにいってきかせました。
五
法一《ほういち》は、いいつけられたとおりに、えんがわにすわっていました。と、いつもの時刻《じこく》がきて、いつもの武士が、裏門《うらもん》からはいって来ました。
「法一。」
しかし、法一は息《いき》を殺《ころ》していました。
「法一。」
二どめの声は、おどすように聞えました。が、法師はかたく口をむすんでいました。
「法一。……こりゃへんじがないぞ。いないのか。」
と、武士は、えんがわへよって来ました。
「おや、ここにびわだけある。が、法一はいない。へんじのないのもむりはない。が、耳だけがあるぞ。使《つか》いに来たしょうこに、これを持っていこう。」
こう武士《ぶし》はつぶやくと、法師のりょう耳は、いきなり鉄棒《てつぼう》のような指先《ゆびさき》で、ひきちぎられました。けれど法師は、声もだせませんでした。
武士は、それでいってしまいました。
夜がふけて、お坊《ぼう》さんは帰って来ました。そして法師が、りょう耳から流れでる血の中にすわっているのを見つけました。
しかし法師は身動きひとつせず、きちんとすわっています。お坊さんは、びっくりしながら、
「法一、このありさまはどうしたのじゃ?」
と、さけびました。法師《ほうし》はそこで、はじめてわれにかえり、今夜のできごとを話しました。
「ああ、そうじゃったか。いや、それはわしの手落《てお》ちじゃった。おまえの耳ばかりへは、経文《きょうもん》を書くのを忘《わす》れたのじゃ。これはあいすまぬ。が、できたことはしかたがない。このうえは、早く傷《きず》をなおすことじゃ。それだけのさいなんで、命《いのち》びろいをしたと思えば、あきらめがつく。もう、これでおまえのからだから、悪霊《あくりょう》がきえさったのじゃから、安心《あんしん》するがよい。」
お坊《ぼう》さんは、そういいました。
それから、この法師《ほうし》には、「耳《みみ》なし法一《ほういち》」というあだ名がつき、びわの名手《めいしゅ》として、ますます名声《めいせい》が高くなりました。[#地付き](昭2・6)
底本:「赤い鳥代表作集 2」小峰書店
1958(昭和33)年11月15日第1刷
1982(昭和57)年2月15日第21刷
初出:「赤い鳥」赤い鳥社
1927(昭和2)年6月号
入力:林 幸雄
校正:川山隆
2008年4月9日作成
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