い目を空にむけ、なんとはなし、もの思いにふけっていました。と、やがて裏門《うらもん》に近づく人の足音《あしおと》がして、だれか門をくぐると、裏庭《うらにわ》を通《とお》って法師の方へ近づいて来ました。坊さんの足音にしては、すこしへんだと思いながら、耳をかたむけていると、とつぜん、ふとい声で、ちょうど武士《ぶし》が、けらいを呼《よ》ぶように、
「法一《ほういち》。」
と、よびかけました。法師はぎょっとして、すぐ返事《へんじ》もできずにいると、かさねて、さらにふとい声で、
「法一。」
「はい……わたしは、めくらでございます。およびになるのは、どなたでしょうか。」
 法師は、やっとそう答《こた》えることができました。
「いや、おどろくにはおよばぬ。」
と、声の主《ぬし》は、すこしやさしい調子《ちょうし》になり、
「わしは使《つか》いのものじゃ。わしのご主君《しゅくん》は、それは高貴《こうき》なお方《かた》ではあるが、多くの、りっぱなおともをおつれになり、いま赤間《あかま》ガ関《せき》に、おとどまりになっていられる。さて、ご主君《しゅくん》は、そのほうのびわ[#「びわ」に傍点]の名声《めいせい》をおききになり、今夜《こんや》はぜひ、そのほうの、とくいの壇《だん》ノ浦《うら》の一|曲《きょく》をきいて、むかしをしのぼうとされている。されば、これより、わしといっしょにおいでくだされたい。」
 この当時《とうじ》は、武士《ぶし》のことばに、そうむやみにそむくわけにはいきませんでしたので、法一はなんとなく気味悪《きみわる》く思いながらも、びわをかかえて、その案内者《あんないしゃ》に手をひかれて寺をでかけました。案内するひとの手は、まるで鉄《てつ》のように、かたく冷《つめ》たく、そして大またに、ずしりずしりと歩いていきます。そのようすから察《さっ》すると、そのひとは、いかめしいよろいかぶとを身につけた、戦場《せんじょう》の武士《ぶし》のように思われました。
 やがて、その武士はたちどまりました。そこは、大きなりっぱなご門の前のように思われました。しかし、このあたりには、それほどに大きな、りっぱなご門は、あみだ寺《でら》の山門《さんもん》よりほかにはないはずだが、と法師《ほうし》はひとり思いました。
「開門《かいもん》。」
 武士は、こう高《たか》らかにいいました。と、中でかんぬきをはずす音がして、大きなとびらはしずかに開かれました。武士は法師の手をとって、中へはいりました。しっとりとした庭を、しばらくいくと、またおごそかな、りっぱな大げんかんと思われる前に、たちどまりました。武士はそこで、また高らかにいいました。
「ただいま、びわ法師《ほうし》、法一をつれてまいりました。」
 大げんかんのうちでは、ふすまをあける音、大戸をあける音がして、やがて、やさしい女たちの話し声が聞えてきました。その声で察《さっ》すると、その女たちは、この高貴《こうき》なおやしきの、召使《めしつか》いであることがわかりました。その召使いの女のひとりが、法師の手をやわらかにとると、こちらへと、大げんかんのうちへ案内《あんない》しました。それから、すべるようにみがきこんだ、長いろうかをいくまがりかして、かぞえきれないほどの、部屋《へや》べやの前をすぎて、やがて大広間《おおひろま》へ案内されました。そこには、かなりおおぜいの人びとが息《いき》をひそめて、いならんでいることが、そのけはいでわかりました。やわらかな衣《きぬ》ずれの音が、森《もり》の木のすれあうように聞えました。
 法師は、大広間の床《とこ》の間《ま》と、はんたいがわと思われるところに、ふっくらとしたざぶとんの上にすわらせられました。法師はきちんとすわり、持って来たびわをひきよせると、耳もとで老女《ろうじょ》らしい声がしました。
「平家《へいけ》の物語《ものがたり》――壇《だん》ノ浦《うら》を弾《だん》じてください。」

     三

 法師はしずかにびわ[#「びわ」に傍点]をとりあげました。大広間のうちは、水をうったようにしん[#「しん」に傍点]となりました。はじめは小川のせせらぎのように、かすかにかすかに鳴《な》りだし、ついで谷川《たにがわ》の岩にくだける水音のようにひびきだして、法師のあわれにも、ほがらかな声が、もれはじめました。その声は一だんごとに力を増《ま》し、泣くがように、むせぶがようにひびきわたりました。その声につれて弾《だん》ずるびわの音は、また縦横《じゅうおう》につき進む軍船《ぐんせん》の音、矢《や》のとびかうひびき、甲胄《かっちゅう》の音、つるぎの鳴《な》り、軍勢《ぐんぜい》のわめき声、大浪《おおなみ》のうなり、壇《だん》ノ浦《うら》合戦《かっせん》そのままのありさまをあらわしました。法師はもは
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