数年ほど楽しかつた時は無いと思ふ。まだ富士見町に住んで居られる時、晶子夫人から本の装釘を頼まれた。それはどの本の為めといふのではなかつた。当時わたくしは名古屋の閑所《かんじょ》に住み、その庭のかなめもち[#「かなめもち」に傍点]とどうだん[#「どうだん」に傍点]の葉をていねいに写生した。うち忘れた頃それが晶子夫人の歌集「心の遠景」の表紙と其紙函との装飾に用ゐられた。この集の発行は昭和三年六月の事である。わたくしは名古屋を去つて仙台に在つた。木版は孰れも伊上凡骨が其弟子を督して彫刻する所であつた。無頓着に引いた細い線を克明に彫つてくれたのを見て気の毒と思つた。
 もち[#「もち」に傍点]のうちではかなめもち[#「かなめもち」に傍点]が其葉の色が一番美しい。殊に春落葉する前に、暗示の古葉を着け、これに新芽の淡緑と壮葉の藍鼠とが交るのが、色取が好い。
 今も勤先の窓の前に幹の繁いかなめもち[#「かなめもち」に傍点]が一本有る。春になると写生したい衝動を起す。雨宮傭蔵君の為めに画帖に即席に写したことはあるが、本の表紙の為めに画かうと思つたことは嘗て無かつた。来年の春は一つ写してやらうと思ふ。
  春にして細葉冬青《もち》の枯葉の
  色紅く音も無く散りゆくは
  秋の落葉に比して
  さみしきかなや、ひとしほ
      *
  草の芽に落葉や雨のしめやかさ
とは大正十五年の春、名古屋のかなめもち[#「かなめもち」に傍点]を見て作つた詩である。

 仙台にゐた時は閑が多く、しばしば庭の草木を写生した。そこに越してくると、想ひがけぬ木の芽、花の蕾が時々に姿を現はし目を喜ばした。昭和九年の拙著「雪櫚集」は半ば其庭の写生文を集めたものであり、其本の表紙にも自ら庭の一部を写して之に当てた。どくだみ[#「どくだみ」に傍点]とちどめぐさ[#「ちどめぐさ」に傍点]をあひしらつたものであるが、思ふやうに刷り上がらなかつた。
 同じ年に出た小宮豊隆君の「黄金虫」がやはりこの庭の写生画を其本の表紙に用ゐた。それは一種のぎばうし[#「ぎばうし」に傍点]のスケツチである。普通のものに較べて葉も小さく、花の茎も短く、殊に葉にはちりめんじわが寄つてゐる。何でももとは舶来の種だと云ふことである。これは表紙の図案にしようなどと思つたのでなく、板下の用意もなく、鉛筆の筋などが雑然として残つてゐた。木版師はそ
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