和を取りつくろつて下すつた。唯この本の初めの部には草木に関する考証幾篇かが有り、其内容にはこの表紙のまんざらそぐはぬこともあるまいと自ら慰めた。

 それよりも前に、わたくしは小堀杏奴夫人からも其著書の表紙の図案を頼まれてゐた。其時は本の装釘の事などまるで頭になかつたが、わざわざ尋ね来られての頼みに、かれこれ思ひめぐらして逢着したのは、今から三十余年前、即ち大正二年の夏八月、伊豆の湯ケ島で作つた渓流の写生画である。当時三越が賞を懸けて江戸褄の図案を募集したことがある。それで思ひ付いてそれに通ずる四つの図案を考へた。第一は「春」で、下部に前景として赤黒い鳥居の上半が出で、その傍に半ば開いた桜の花の樹が枝を張る。水桶と縄のぼんでんとを立てのせた屋根も見え、その向ふには船の檣が乱れ立つところである。着物の裾に鳥居はどうかと思つた。「夏」は繁りはびこる岸辺の白樫の柯葉の隙間に沸白の渓流が透かし見え、岩の上に鶺鴒が尾を動かすところである。「秋」は濃茶の色に二三株のさび赤んだ杉の梢が山のはざまに聳えるところである。「冬」は雪持の万年青に紅い実ののぞいてゐるところである。無論募集には応じなかったが、若し応じて選に当つたとしたら其当時では尤も新様の江戸褄となつたであらう、洋風の写生をそのまま図案化したものであつたから。其後数年にして、同じ店の江戸褄の募集の選に当つた作品のうちに、ポプラの樹を前景としてその梢を鳥の翔り過ぐるといふやうなのもあつた。わたくしのかつて企てたやうな方角の図案であつた。
 この九月の或る日曜日に、その「夏」の部を本の表紙にあふやうに画いたのであるが、板下として手際好く為上げるのには中々骨が折れた。若し印刷がうまく行つたらこれは見よい装釘ともならう。本の題はまだきまつて居なかつたやうであるから、それとこの図案との附《つき》が好く行くかどうかは知らぬ。杏奴女史の先君の為めには、同じ大正二年に、其翻訳にかかる「フアウスト」の為めに装幀の図案をした。Buchschmuck von Masao Ota とわざわざ銘記せられた。思へばわたくしの本の装釘に係はつたのも古い時からである。
 多分同じ頃であつたらう。杏奴夫人の先君はわたくしに嘱するに、令息類君の為めに鍾馗の絵を作ることを以てした。わたくしは小石川田町の何とかと云つた呉服屋から大幅の金巾《かなきん》の布《きれ》
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