《さき》にゆく菊枝どのいのう。菊枝どのいのう……はれ、聞えぬげな。(躓《つまづ》くが如く、二足三足下手の方に歩みよりて。)おおい、おおい。菊枝殿いのう。(右手を挙げて麾《さしまね》く。)あ、やうやう聞こえたさうな。やれ、うれしや。喃《なう》、喃、菊枝どのいのう。早う、早う、菊枝どのいのう。
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此時老いたる男下手より来りてこの様を怪しむ貌。
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老いたる男 やいの。其方《そなた》はけたたましう何を呼ばうのぢや。(額に手を翳《かざ》して、下手の方を眺めやり、また此方《こなた》を向きて。)何が起つたのぢや。
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千代 われら、われら……われら常丸が拉《さら》はれておぢやつた。
老いたる男 何ぢや。何が拉はれたてや。
千代 われら常丸ぢや。われら小さい男《を》の子ぢや。
老いたる男 はて、さて、今時この都に鷲の鳥はおぢやるまいと思うたが。
千代 いや鷲の鳥ではおぢやらぬ。鷲の鳥ではおぢやらぬ。
老いたる男 鷲の鳥でおぢやらぬなら手長猿かいのう。
千代 いやいやそれでもおぢやらぬ。
老いたる男 さらばお山の女取《めとり》でもおぢやつたかいのう。
千代 人さらひぢや。人さらひぢや。
老いたる男 何。人さらひとは近頃面妖なことぢや。何処《どこ》から来て、何《ど》の方角に隠れて行《い》たかの。
千代 (泣き乍《なが》ら)何処からも来ぬ。何処へも行かぬ。
老いたる男 其方《そなた》は泣いて許《ばか》りおぢやつては、しやほに分らぬわ。
千代 (大声にて。)あの南蛮寺が拉つたのぢや。
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菊枝戻り来る。
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菊枝 何ぢや。何ぢや。何ぢや。
千代 南蛮寺がわれら常丸を拉つておぢやつた。
菊枝 はれ!(気絶す。)
老いたる男 (独白)あれ、あれ、また一つ事が殖えた。女子《をなご》といふものは理が分らいで困るものぢや。――(菊枝に。)やいの、女子よ。南蛮寺が人を拉らふわけはしやほにおぢやらぬ。――(千代に。)俺《おら》はな、この女子を介抱しておぢやるさかいに、其方は早やう行て、寺の内に其方が子を捜して来《き》やれ。何も不思議があるものか。不思議は皆心から湧《わ》くものぢや。疑心暗鬼ぢや。何も恐ろしい事はおぢやらぬさかいに、
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