でに阻止した。
 その他にまだ朧ろげにも一つの不安がある。是は彼の空想に屬することであつて、自分がそんな空想を抱くといふ事それ自身が彼の自覺には堪ふ可からざる苦痛であつた。――鹿田の手紙の文句の中に「やさしき御姉妹[#「やさしき御姉妹」に傍点]」云々の文字があつた。それが氣になるのである。
 富之助の姉のおつなは今年の三月迄東京の學校に居た。そして鹿田は蔭ながらおつなの事を善く知つて居た。
 おつなは二十一歳で美人であつた、富之助はおつなのことを姉ながら神々《かうがう》しい女だと思つて居た。
 美しい神々しいおつな……獰猛《だうまう》な鹿田……富之助の頭のこの烈しい對照《コントラスト》が更に幾多の不祥な聯想を呼んだ。或ものは鮮明に表象に現はれた。或ものは意識|閾《ゐき》下に壓《お》しつけられて、ただ不安な心持だけになつてゐる。
 夏休み前に鹿田が富之助にじやうだんを云つたことがある。……僕が君に對する愛は弟に對する愛だ。それが僕の不謹愼の爲めに邪道に落ちたのだ。君のシスタアに對する愛はこれこそ本當の神聖なる愛だ……
 ……富之助は今假睡から起き上つたがまたゆくりなくも同じやうなことを考へた。頭がくわつとなつたが、それが治まらないで、輕い頭痛と變つて、蟀谷《こめかみ》が痛んだ。時計が五十分に近《ちかづ》いた。刻々にその刻秒の音が聞えるほどあたりは靜かである。時々七面鳥が物に驚いたかのやうに啼いた。
 突然に富之助は二階の隅の机の上に腕を當てた。ちやうど泣くやうな姿勢をしてその腕に顏を埋めた。
「僕は死んであやまる。」さう小さな聲で言つた。
 少時《しばらく》して富之助が下に降りて來た時には、珍らしくも父が、内の人の居間になつてゐる八疊に居た。姉と妹も居、母も床から起きて來てそこに居た。富之助は父の顏を見ると、何か隱れてゐる事を發見せられはしまいかといふ心を起した。そしてずつと其部屋を通り拔けて、臺所の方へ行つて顏を洗つた。
 白い大きな瀬戸引の金盥に水を入れて、成るべくゆつくりゆつくり顏を洗つた。皆と會ふ時間を一刻でも延ばさうとするのである。さうすると父も或は座を離れるやうなことがあるかも知れないと思つたからである。
 然し富之助が八疊に來た時には父はまだそこに居た。今日はいつになく温和な顏をして居たが、それでも富之助には不安であつた。
 今まで富之助の父に對する不安
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