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自分は亦此処にも日本らしいからぬメロデイを聞いておやおやと思つたのある。若し自分が威尼西亜《エネチア》のカナアルの縁をでも歩いてゐるのなら、そこに恁んな節を聞かうとも、乃至はアリオストオ、タツソオ等が古き朗詠《スタチヴオ》を聞かうとも、此時のやうな不可思議な感じは抱かなかつたらう。併し自分は今東京を歩るいて居るのだ。河岸縁には鍋焼饂飩がぱたぱたやつてるではないか。煉瓦の壁の側の瓦斯灯には松葉の輪に「歌沢」とちやんと書いてあるではないか。こんな「髪結新三」的情調へあんなべらぼうなバツタアフライ、ホワイトリボンが這入つて来てたまるものか。然し、事実は、嘘のやうだが、事実だから仕方が無い。恁ういふ風にいふと、全く誇張した修辞法と思ふかも知れないが、知の外の、感情の上には確かに不思議だ。
それから……自分はぶらぶらと京橋まで歩いて来た。「金沢」といふ寄席の隣の、何とかいふ小さいしる粉屋でしる粉をのんで、その家を立ち出でると、三味線の音は手に取るやうに聞えて居た。
外は、夜が寒い。月は見えなくなつて暗かつた。唯金沢の二階は、ばつと明るく、灯の光が一面の障子を照らして居た。そこから三味線の音が聞かれるのであつた。軒行灯に「金之助」といふ名が見えたから、多分今のも、あのもう年増の女の三味線弾の長唄であつたらう。一挺ではあつたが、曲は何か賑かなものだつたと見えて、彼の長唄に特有な、短調な、強くリズミカルな節を幾度か繰り返しては、また次の撥音ばかりの荒い節に移つて行つてゐた。三四人の人が立つてたから自分も立ち止まつて聴いた。一寸と思ふ内につい釣り込まれて立つて居ると、そこに立つた人々は急に高声に罵り乍ら立ち去る処だつた。下の木戸番が、そこに立つ位なら内に入つた方が寒くないぜといふやうな皮肉を云つたのだと見える。
「べらぼうめ、天下の往還だ。立ちてえから立つたんだい。」といひながら印半纏の男が丁度歩きかけた。もう立つ人もなくなつた。ただ、まだをかしな女がまごまごしてゐる位なものだつた。前に縁日の通りでも、無理に、謳者の廻に立つ人の中へ割り込むやうには入つたりした、若い、吾妻コオトを着た妙な女だつた。そいつも然し行つてしまつた。で、自分もまた歩き出さうと思つて一足踏む時、まだ何だか後ろの方で人が呟くやうだと気が付いた。実際、矢張人が居たのだつた。頭の禿げた、ずぶよぼよぼな爺さんが、向ひの家の瓦の壁の前に積み上げられた石の下に跼んでゐた。さうして何かぶつぶつ口小言を云つて居るのであつた。
「ああ、爺さん、お前か?」
と驚いて自分は叫んだ。同時にこの老爺の事について、かつて聞いた事を思ひ出して急に可笑しくなつた。
もと自分が日本橋の裏通りの居酒屋へは入つた事があつたが、その時、親子づれの浪花節語が門口で国定忠次を語つて行つたあとで、居酒屋の内でもてんでんに調子づいて、いろいろの歌を歌ひ出したのに遭遇した。その時此老爺もその席に居た。さうして歯の抜けた口で以て、自分も仲間に加はつて、ぼけたやうな「我ものと思へば軽し」を歌ひ出した時には、みんな笑わずには居られなつた。
その時聞いた話があるが、この老爺はもと東京の士族で、さらぬだに零落しやすかつた維新後の士族の中に、更に酒と女とで到頭この年まで河岸の軽子にまで落ちぶれたのださうだ。それでも殆ど毎晩欠かさずに此酒場にくる。だが、歌を自分が歌つて笑はれたのは其晩初めてだと云ふ。自分こそ歌はないが、歌は本当の好きで、この酒場を出れば屹度どこかの寄席の近くへ往くんださうだ。金沢はすぐ高座の下が往来だから、よくそこでその地びたの上に寝てゐるのださうだ。
「ぢいさん、また来たな」と、さういふ話を知つて居たから、自分は話しかけた。今迄独言をいつて居た老爺は急に相手が出来たものだから、
「本当さ。なあ、天下の往還でえ、ぺらんめえ、何つてやがるだ」とやや声高に自分に云つた。
……それから、自分はぢき歩きだした。京橋の通りに出ても、実際だつたのか、それとも耳鳴りだつたのか、まだかすかに長唄の三味線が聞こえて居た。
底本:「日本の名随筆 別巻95 明治」作品社
1999(平成11)年1月25日第1刷発行
底本の親本:「木下杢太郎全集 第七巻」岩波書店
1981(昭和56)年6月
入力:浦山敦子
校正:noriko saito
2007年8月10日作成
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