て置く為めに、自分は友人を拉してその近くの料理屋の二階に登つた。さうして重い緑色のペパミントと濃い珈琲《コーヒー》とを併せ飲んだ。欄千の日差はやがて正午に近いといふ事を知らした。
「では皆さんに申上げますが、之は私の長男です……」階段に下りかかる時、葦簾の襖を隔てた隣室からかう云ふ言葉を聞いた。そこには本郷座的に礼装した一群が卓を囲んでゐた。高い島田を結つた女の後姿も見えた。年とつた男の人が今立ち上つて若い人を紹介する所だつたらしい。そんな声を聞きながら、自分等は再び外へ出た。

 人は沈黙してゐる。足の爪先に病でもあるやうに、じつと物うれはしげに地の面を眺めてゐる。そこには海底のやうに緑《あを》い弧灯の波をうけて、白と紅との芙蓉の花が神経的に顫へて居た。
 星のない八月の夜は暗かつた。どことなしに、然し、なつかしい夏の夜の光がおぼめいて居た。
 噴水の夜の音楽。
 暗く、陰鬱に、しかも懐しく悲しい水の曲節は、たとへば、西洋楽を聴くに熟せざる吾等若き東洋人がチヤイコウスキイの夜の曲のロマンチツクな仏蘭西的魯西亞的旋律をきく時に、どこかの国が、はたその国、その国民の烈しき情緒生活が音楽の後ろにかくれて居るとは感じながら、遂に其本体を摸索する事の出来ないやうな覚束ない心持を、池を囲む人に、女に、また青きポプラスの並木に、柔らかき夜の空気に起させて居るのであつた。
 調和を失せる痛ましい日本が、一方に勤倹尚武を鼓吹しながら、同時また恁んな近代的情調を日比谷公園裏に蔵して居るといふ矛盾を笑はずには居られなかつた。
 共同ベンチに腰を掛けた一群の人はどういふ感じを持つてゐるか、自分は切に知りたかつた。ここは義太夫のさはりに、新内に、宇治は茶に習ひ得た美的需要を満すに適する所ではなかつた。
 高く昇る水は夢の如く白く、滾《はし》り飛ぶ水滴は叙情詩の砕けたる霊魂のやうに紫の街灯の影を宿して、さやさやと悲しく池の面を滑つてゐた。
 その前に、美的趣味に於て亡国の民は黙々として、足の指先の病を憂へるやうに、俛首れて不可思議の音楽を聞いてゐた。
 自分は八月の或夜日比谷公園を歩るいて、恁う云ふ光景に出遇つた事を覚えてゐる。
 数寄屋橋を渡つて銀座の通りに出ると、そこはもう夏の夜の、涌くが如き歓楽の叫びにふるへて居た。

 自分は銀座の通りの雑踏を思ふごとに、その横町で或秋の夜偶然出遇つ
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