ュ人達であらう。青色の橋の欄干に女異人が二人立つ。もう少し日が暮れたなら正にヰツスラア情調中の人となる可きものであらう。
 京都の女の相貌は複合寫眞の美しさのやうに思はれる。深い刻みや、個人性が消えてぼつとした Morbidezza がお白いの下から覗く。
 ああ河岸に始めて燈が點いた。予等は之から歩かねばならぬ。
「おお、ねえさん、それぢや勘定!」(四月三日、京都にて。)

 二つ三つ妙な光景を見た。君は予が京都でピエエル・ロチイ的の見方をするのを喜ばぬかも知れないが、京都といふものの傳説から全く自由な予は、どうしてもかくの如き漫畫派的羅曼的に見ないわけにゆかぬ。たとへば都踊の中の茶の湯なんかは實に此の見方から愉快の場所だ。殊に異人が此滑稽のアクサンを強くしてくれる。
 僕等には到底我慢の出來ない七面倒くさい儀式で茶が立てられた。身なり、動作に對應せぬ童顏の小さい女達が茶を配るとき第一の大きな茶碗が最端の年とつた異人の前に置かれた。
 それに對した側には色斑らな上衣及びスカウトの西洋婦人の一群が好奇の目を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]つて「チヤノユ」の珍妙の手續を見て居たが、今第一の茶が同邦人の前に配せられた時一齊に手を叩いた。老いたる異人は顏を赤めて快活に笑つた。
 兎に角女異人(その對照として黒の裝束の男達も可いが)と舞子の群は、その共にでこでこした濃厚の裝束で西班牙のスロアアガの畫もかくやと思はれる美しい畫面を形造るのである。それに蝋燭及び電燈の光が一種の雰圍氣を供給して居る。
 一人の慾張りなばあさんが近隣の二三の人から團子の模樣のついた素燒の菓子皿を貰ひ集めた。するとその近くの西洋人の一群が、自分のも皆んなそのばあさんにやらねばならぬと思つたと見えて、その方へ運びためたので、少時にしてばあさんの卓の上には十數個の皿や食ひ掛けの饅頭が集つて、堂内は忽ちどつと一齊に起る笑聲の海となつた。意味を解しない異人達は自からも赤い顏になつて笑つたのである。
 若し夫れ是等の雜沓中で、いやに通を振り※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]す氣のきかない一大阪人を巧みに描寫したならば、確かに、膝栗毛以上のニユアンスの藝術を作り出す事が出來るだらう。この餘りに粹でも意氣でも無かつた大阪人は、大都會の人といふ自慢と、恣なる言行とで、屡多くの人の反感と嘲笑とを招いて居つた。たとへば、茶の湯の法式に通じて居るとも見えない彼は、この雜然たる群集及び小さい茶を配る女達から「禮式」を要求しようと欲するが如くであつた。そして大聲で罵つた。膝栗毛は方言及び細かな動作の觀察がある故、今に貴いと思ふ。
「京都に於ける大阪人」は、蓋し作者の精緻なる理解、微妙なる關係を捕捉する機巧及び Sens pour nuance(Taine の標準)に向つての好試金石であると思ふ。僕等はあまり多い粗削《あらけづ》りの藝術に倦きて居る。もつと仕上|鉋《かんな》のかかつたものが欲しいのである。予が所謂自然派の作品のうちで徳田秋聲氏を尤も好むのも此純藝術家的の見地からである。
 都踊と云ふものはもとより一向下らないものであつた。ああいふ數でこなす藝術は目と耳とを勞《つか》らせるだけで土産話の種より外には役立たぬ。板を叩くやうな三味線とチヤンチャンなる鐘、それに「ハアハ」とか「ヨオイイ」などといふ器械的の下方の拍子の間に、間のびの「つうきいかあげえの……傾く方は……」つて云ふやうな悠長な歌で體操するのであるから面白くないに極まつて居るのである。(四月三日夜半、汽車中。)



底本:「現代日本紀行文学全集 西日本編」ほるぷ出版
   1976(昭和51)年8月1日初版発行
底本の親本:「地下一尺集」叢文閣
   1921(大正10)年刊行
初出:「三田文学」
   1910(明治43年)5月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
※「チヤン」と「チャン」の混在は底本の通りにしました。
※誤植を疑った箇所については、「現代紀行文學全集 第四巻 西日本篇」修道社、1958(昭和33)年4月15日発行を参照しました。
入力:林 幸雄
校正:門田裕志、小林繁雄
2005年9月9日作成
青空文庫作成ファイル:
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