rし出すと云ふ事は既に予の領分外である。それはもつと深い透徹《ペネトラシオン》を要する。予は君の短篇《ノヱル》の類集《セリイ》に待たねばなるまい。
 此間に予は突然濁つた太い聲に驚かされたのである。「竹ちやん、竹ちやん、待つてましたあり――」といふ言葉が其瞬間に理會せられた。人はみな忽ち其方へ視線を轉じた。蓋し豫定喝采者の類であつたらう。餘りに年の寄つた銅色の顏の老爺が火鉢の縁を指先で撫でながら何も知らぬやうに俯《うつむ》いてゐた。其對照が既に滑稽以上であつたからして、轉じられた視線は豫期に反した弛緩の感じを以て再び舊に戻るやうに見えた。
 予は藝術を[#ここから横組み]△Illusion+△Connaissance[#ここで横組み終わり] といふものの極限《リミツト》として觀相しようと常々思つてゐるのである。舊《もと》の美學は唯藝術の假感の極限の場合をのみ論じて居るやうに見える。肉聲が織る曲節《メロデイ》、曲節の底を漂ふ肉聲――たとへば斯くの如き二つの軸の間を動搖する所に藝術鑑賞の心理作用が求められねばならぬ。或は此くの如きは完成せる――人を幻影の境に引いてゆく藝術を有せざる時代の人の思想ではないかと反問せられたなら予も亦返答に窮するであらう。藝術感及び實感の交錯は芝翫の八重垣姫、茜屋のお園の演伎の際、屡※[#二の字点、1−2−22]東京座や歌舞伎座の大入場の喧噪として現はれたものである。
 今の場合に於ても若し多少美しい女の太夫が、義太夫聲に雜《まじ》る實《じつ》の女の鼻がかる音聲で「これまで居たのがお身のあだ……」と云ひながら輕く右手の扇子で左の掌を打ち、膝の上に身を立たせるやうにして目を不定につぶりながら、何かを囘想するやうな表情《エキスプレシヨン》で滑なタンポオで唄ふと云ふやうな事があれば、多くの見物人は必ず其感動を拍手か意味のない呼び聲に現はすのであつた。何となれば此《ここ》は全く愼《つつしみ》といふ事から放たれて居た場所であつたから。若し一個の藝術的洞察者があるならばロダンの依つて名聲を博した所のものを又日本の材料から作り出す事が出來るのは勿論である。
 道頓堀へ出たら辨天座の前が大變賑かだつたから又はひつて見たくなつた。中々幕が開《あ》かなかつた。開《あ》いたら大阪の觀客に媚びる東京芝居の仕出しで一向つまらなかつたから直ぐそこから出た。
「まあまあ高
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