るかも知れない。
船の船唄も明かになる。それを唄ふ人の顏も讀めて來る。白い直衣の禰宜が渚に立つて遙拜する。忽ち四五十人の若者が裸體《はだか》になつて海に飛び込む。或人は神輿にかかる。他の人は一人一人鹿島踊の人を背に乘せて渚に運んでやる。それを肩に取る樣も異樣で、いきなり、ぐつと胸倉を掴んでかつぐ。すると背の人は枚を喞んで、幣束樂器の類を持つた左の手を前に突き出してよいよいと叫ぶ。暫時はよい、よい、そりや、と叫ぶ聲で渚がふさがる。小さい法螺の貝を持つ兒童までが同じ型をする。榊を外す、それを受取る。海の波に色々の彩文がうつる。既に渚に上つた子供は法蝶の貝を吹く。――それらの事が濟むと復踊が始まるのである。
船唄及び鹿島踊の事に關しては予は何の知識をも持つて居ない。二三の人にも尋ねて見たが分らなかつた。敢てそれを窮めようと云ふ氣もなかつたから其儘にした。唯予がこの種の人間活動に就いて愉快に感ずる所は、昔の人の生活が藝術的であつた事である。神社と云ふものがあり、その内の神を祭ると云ふので目的が神秘に化せられる。天平勝寶の昔に貴人より庶民に至るまで、形にせられたる人心の象徴たる大佛に禮拜したと同じ意味である。嚴格なる老幼の序、階級、制度等に對する不平や反抗も凡て此の神秘《ミスチツク》が融解したのである。たとへ人間の知を求める心は凡て不可解を闡明し、思想の不純を澄まさなければ休まないとした所で、然し一方には亦新しい神秘がなくては滿足が出來ないやうにも見える。實は今朝小學校の廣場で消防組の若衆たちの稽古を見た。中隊若しくは大隊教練であつて、其嚮導を務める人は在郷軍人である。人間はどうしても共同の活動を要求するのであるから、昔の馬鹿氣たお祭の遊戲に比して此の種の有目的の文化的行爲は贊成するに足るのであるが、其の目的が、明かであればあるだけ、信仰及び獻身の心持がなくなるのは止むを得ない。
軍國主義の外に衆生の心を統一せしむるに足る巨大なる磁石はどこに求められるだらうか。(同日夜)
夜、一種の好奇心からちよつと芝居小屋を覗いて見た。この海邊の小さい町の人々が如何なる遊樂を求めるかをも知りたいと思つたのであつたが、別に珍らしい發見もしなかつた。特殊の事もなかつたからである。今の樣な交通の便利の時に、東京から遠くない所にさう云ふ者を求めると云ふ事は第一無理であるが、然し舞臺と見物とは非常に親密である。いやな敵役には蜜柑の皮が抛られる。花道は子供等の群に占領せられて居て、揚幕があいて松前五郎兵衞の女房が出て來ると途中で思入れをする場所を作る爲めに、小さい聲で先づ子供等を叱らなければならぬ。そこでわらわらと子供等が逃げ出す。
汚い淺黄の着物をきた五郎兵衞が拷問にかけられて醜い顏をする。粗末な二重舞臺の上では役人が手習でもするやうな大きな字で口供を取つてゐる。かう云ふ所から藝術の幻影郷を抽き出すには隨分無理な 〔e'limination〕 をしなければなるまいと思ふが、見物は一向平氣で見とれて居るのである。然し此地《ここ》も東京と同じく、三十未滿の人達は松前五郎兵衞は愚か、もう白井權八、鈴木主水、梅川忠兵衞なんぞの傳説、及び其藝術的感情とは全く沒交渉であるからして、隙つぶしといふ外に大して面白くもなささうに、偏に鮨や蜜柑を食べてゐるのである。彼等の遊樂、戀愛乃至放蕩は全く數學的だ。よし Rhythme はあつても 〔Me'lodie〕 はない。少くとも二十年前には、良い事か惡い事か知らないが、まだ民間に音樂といふものがあつたのである。
それでも四十恰好の、少しは鼻唄でも歌ひさうな男が、時々取つて付けたやうに「よい、チヨボ、チヨボ」などと呼んで居た。その内に色々の商家の名を染めた汚い幕が引かれる。するとどやどやと子供等が飛び出して幕の中へ首を突き込んで、引いて行く役者を見送るのである。
不快になつて小屋を出て、暇乞にと縁者を訪ねた。そして偶然人一代前の世の話が出て面白かつた。其内容が餘りに特殊で、事に關與した人や、乃至それらの人の運命を知つた者でなければ興味がないから、報告する事は止める。唯然し君とてもかういふ想像はする事が出來るだらう。即ち東京からさう遠くない港へ、押送り、乃至珍らしい蒸氣船で、「窮理問答」「世界膝栗毛」「學問のすすめ」「倭國字西洋文庫」と云つたやうな本がはひつて、本棚の「當世女房氣質」「北雪美談」を驅逐し、英山等の華魁《おいらん》繪、豐國、國貞等の役者の似顏、國滿が吉原花盛の浮繪《うきゑ》などの卷物の尾《しり》に芳虎の『英吉利國』の畫、清親が「東京名所圖」其他「無類絶妙英國役館圖」「第一國立銀行五階造」の圖などが繼ぎ足され、獵虎帽の年寄りが太陽は無數に西の海底にたまり、地の下の大鯰が地震を起すなどといふ須彌山説《しゆみせんせつ》の代りに西洋の窮理を説いた時があつたといふ事である。予の眼にはその時代の人々の姿がまだありありと殘つてゐる。そして古い文庫ぐらに其時の遺物を搜し出す心持は一種特別である。「横濱へ通ふ蒸氣は千枚張りの共車この家《や》へ通ふは人力車《りんりきしや》」の其頃は多少 exotiqeque であつた甚句の歌と共に、純然たる昔の風俗並びに歌謠の殘つて居た時の事がどうかして鮮明に思ひ浮べられる時は、涙も催さむ許りに悲しくなる事がある。
もと押送りに乘つて東京通ひをして、仕切も取り勘定も濟ました後の早朝出帆に、檣を立てる唄で靈岸島の岸の人を泣かしたといふ船頭も尚生きて居るけれども、もう唄も覺えて居ない。
子供等もおしろおしろの白木屋の才三さん、丈八ッさんと云ふやうな毯唄は歌はぬ。其代り幸ひにそんな唄を今きくと、聯想は朦朧たる過去の世界を開いてくれる。
然しそれから尚聯想を追究してゆくとかう云ふ世界が段々と崩された迹が思ひ出される。其中にも尤も深く予に印象を與へたものは此町に耶蘇教の入《はひ》つて來た沿革である。初めは小さい家に日曜日の夜々赤い十字の提灯が點された。それが廢れた頃怪しい一人の男が突然まだ寂しかつた頃の此郷に來て、毎夜十字街に立つて説教したのである。それは西洋から歸つて來たこの郷の人であつた。後に其人の新しい、感情的な人格はこの一郷の多くの青年に深い感化を與へた。
さう云ふ風な事を思ひ出しながら今の状態に思ひ比べて見ると、十年十五年の間にもいろんな世相の變遷がある。と、考へると同時に何《なん》か自分の背後に強大なる力が隱れて居るやうに思はれる。
それからまた暗い海へ出て、恣《ほしいまま》な冥想に耽つたのである。
[#ここから2字下げ]
夕暮れがたの濱へ出て
二上り節をうたへば、
昔もかく人の歌ひ※[#「候」のくずし字、383−上−22]と
よぼよぼの盲目《めくら》がいうた。
さても昔も今にかはらぬ
人の心のつらさ、懷《なつか》しさ、悲しさ。
磯の石垣に
薄紅《うすくれなゐ》の石竹の花が咲いた。[#地付き](同日深更)
[#ここで字下げ終わり]
昨夜《ゆうべ》は空が眞黒《まつくろ》であつたが、今朝六時半に起きた時も亦冬とは云ひながらあまり暗かつた。それでも日の出る頃には曇つた空が段々と明るくなる。そこへ遠くで汽笛がなる。
汽船宿には派手な縞の外套を小脇に抱へた大學生や、鼠の二重廻の男、洋服を着た十三四の女の子、その紫紺色の外套が殊に美しかつたことやなどが大勢集つてゐて、一種の繪模樣を造り出して居た。
昨夜は近い山に雪が降つた。かう云ふ事は南方の海國には珍しいので、人々はその噂を以て朝の挨拶に代へて居た。で、町の人は皆朝日を受けた山を見たのである。山腹の畑、松や蜜柑の樹、また遠山の皺《しわ》、それらの上には紫いろの白い雪が積つて、そのあひまあひまの山の色は種々《いろいろ》な礦石で象眼したやうに美しい。殊に遠い峰は赤沸石《エエランヂツト》のやうな半透明な灰緑色を呈して、ぼんやりと漠々たる大空の内に沈んでゐる。唯ここかしこに白雲の※[#「さんずい+翁」、第4水準2−79−5]淡が――鋭く小刀で、彫まれたやうに――風もないのに動いて居る。
「成程ゆうべは寒《さみ》いともつたら、ほれ山《やま》ああんなに積つた。」で濱に立つ漁夫《れふし》でも、萬祝の古着で拵へた半纏で子供を背負つた女房でも、皆《みんな》額に手を翳して山の方を見た。
汽船に乘つてから町の方を見ると、一列の人家が山脈の直下に見え、三千石の平地がその下にありさうには思はれない。見送人の歸りゆく樣、また始められる其日の仕事などが遠くに見える。何《なん》か人生といふものの機關《からくり》、その歸趨、その因果が明かに久遠の相下に見えるやうな氣がして妙な心地になつた。
その内に鐘がなつて、Go《ゴオ》 off《オフ》 ! が人から人に傳へられた。
底本:「現代日本紀行文学全集 東日本編」ほるぷ出版
1976(昭和51)年8月1日初版発行
初出:「三田文学」
1911(明治44)年6〜7月号
入力:林 幸雄
校正:松永正敏
2004年5月1日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全4ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
木下 杢太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング