ス菫の花の青色でぎざぎざと大山一帶の 〔modele'〕 が平面的に現出した。殊に空は、それも水平線に近き所は、ちやうど試驗管の底に澱むヨオドの如く、重い鬱憂《メランコリツク》な紫に淀んでしまつたのであつた。
その時に、一つの汽船の陰がかすかなる陸影の裾に現はれた。
――ぶらぶらと川口に出たら、ごみを燒いたあとに、こんもりと灰が積んであつた。阿夫利神社神璽の印をおした紙、南無普賢大荒神守、火不能燒、水不能漂、とかいた護符などが散らばつて居た。是等は海濱に棲む、「心」を持つた自然が作りだす所の一種の分泌物である。
恰も遠き汽船に第一の汽笛を鳴らしたのである。
[#地から2字上げ](正月二日)
今日は午後偶然に、例の萬祝《まいはひ》を著た人々のぞろぞろと街頭を通り過ぐるのに遭遇した。この二十人ばかりの人の中には子供も大分雜じつて居た。おとなの人々は、多くはその上に黒い紋付を羽織つて居たが、兔に角、七子か羽二重の紋付の裾から紅緑の彩色の高砂の尉姥、三番叟、龜に乘る人、「大漁」の扇を持つ人、また龍宮、寶船、七福神などの模樣の出て居る所は、また南國の海邊に似付かはしい「眞面目《まじめ》」の服裝であると頷かしめる。
是等の老少不同の雜然たる人の群がこの一樣の服裝で統一されてゐると云ふ 〔paralle'lisme〕 はちやうど若沖の群鷄圖と同じ意味で著しく視官に媚びるけれども、同時に人をして彼等を diminutif に觀察せしむるに至るのである。それ故いよいよ藝術的である。
遠くには海の青が見え、四周には冬の田圃、村里の傳説を有する山と森、生活しつつある市街の半面がある。そして街道の兩側には川、芝居小屋、料理屋、果物屋がある。その中を歩いてゆくこの二三十人の人の群を想像して見たまへ。
殊に子供の腰揚げが深く、辨財天、毘沙門天、布袋、福祿壽の腰から下が青縞《めく》の地にかくれて、裾と足とだけが見えるのは興が深い。
夜は水上の、燈あかるき船から船唄が聞えてきた。若し他郷の人の、此聲に慣れないものが聞いたならば、恐らくあれが人の聲の集りであるとは信じまい。實際それ程よく海の波の響に似かようて居るのである。
二日の朝乘り初めと云つて、夜の暗いのに船を沖に出して、釣絲を繋がぬ竿で鰹を釣るまねをするさうである。その話は幾年も幾年も聞いたから、もとはさうしたのであらう。近頃は唯だ陸の船の上で節《せち》を祝ふに過ぎない。(正月三日[#「三日」は底本では「四日」])
正月四日は坊さまの年頭廻りの日である。漁夫《れふし》の萬祝《まいはひ》とは違つたにぎやかな服裝が街《まち》のあちこちで見られた。
始終動いて居て、而かも永久に不變なる大蒼海を後景として、金襴の法衣の僧侶の群を見るのは非常に愉快である。更らに兩者の間に町の歴史を結び付けて考へると、一味の――長篇小説の最終の頁を忍ばせる趣が出る。
無知なりし昔の時代は幸福であつた。科學的知識を以つて教義を議し、阿頼耶識《あらやしき》を檢めようとするやうな時代は既に末世の事である。加持力《カトリツク》の儀典、行列から離れて、授戒會の儀式を離れて、而かも尚蒸々たる衆生は、神人を忘るる底の莊嚴なる醉《ゑひ》を、そも何れの經典から搜し出さうとする。
日の暮れしがた、川に臨んだ浴室で晩鐘の聲を聞いた。官能の快感と冥想の甘味とが薄明と温泉の湯氣とを充たせる小さい室の中に溶けて行くのである。(正月四日)
夕方二階の欄干《らんかん》から海を見下ろして居ると、海岸に連つた家々の屋根の上を汽船の檣だけが通つて居る所であつた。家が途切れた時大きい船の腹が見えたが、ちやうど強い夕日に照り付けられたのであるから、黒のペンキは怪しい褐色に光り、殊に赤い窓の扉はきらきらと事々しく輝いて居た。甲板上の船客も亦一々分明に見わけられたが、知らぬ人の旅ながら、出て行くものを見送るのは何となく心さびしい。少時《しばらく》の間に船は遠くなるのである。さうすると、とろりとろりと最後の笛を鳴らす。水平に近《ちかづ》く頃には、ちやうど八月の青草の中に一つ開いた落花生の花のやうな黄ろい燈をともしたのである。
千七百八十七年三月二日ナポリにてとある日附のゲエテが伊太利亞紀行の中にも同じ心持が書いてある。「海及び船舶も此地に於ては亦全く別種の面目を呈して居る。」といふ當り前の書き出しから、前日強い北風《トラモンタアネ》に送られてパレルモに向けて航行したる弗列戛艇《フレガツテエ》の事を報じ、「かの風なれば今度の航海には三十六時間以上はかからないだらう」と推察を下したりなどして居る。「かの艦の滿々と風を孕んだ帆がカプリとミネル※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]の岬との間を走り、遂に何方ともなく姿をかくしたのを見送つた時、予の心は限りもなき憧憬の念に滿された。若しも自分の戀人がああして遠く去つてゆくのを見たならば、きつと人はこがれ死《じに》に死んでしまふに相違ない。」と書いてある。今も昔も人の心に變りはないと思はれる。
予が窓下に、昔讀んだ事があるといふ記憶を唯一のたよりに、かの紀行の内からやうやうこの頁を搜しあてた頃には、既に海は暗く、向《さ》きの船影は既に見る可からざるに至つた。旅行記の面白さは、例へば陸游が入蜀記の土地の景物を舒し舊址を弔ふ文などの末に、晩に大風となり船人纜を増すとか、夜|雨《あめふ》るとか、蚊が多くて、始めて復た※[#「巾+廚」、第4水準2−12−1]を設けたとかいふ短い言葉で、唯時の關係より外には全く聯絡のない事を書いてあるので、却つて躍然と旅中の趣が目前に彷彿たるに至ると同じく、ゲエテの上記の感傷的な記述の直ぐ次の行には、今は巽風《シロツコ》が出たから、是れが強くなつたらモロの邊の波は一入興深い事だらうなどと書いてあるから、如何にもこの詩人の多情な性格と南歐の風物とがよく見えるのである。
閑話休題《あだしごとはさておき》、松浦佐用姫、鬼界が島の俊寛などの物語にも同じ心持がはひつて居るが、行くと來るとの別れこそあれ、「沖の暗いのに白帆が見える。」の歌は俗謠の絶唱であると思ふ。それに比べると「蒸氣や出てゆく、煙は殘る」の歌は少し下品だ。が、然し尚ほ生活と歌謠との間に密接なる關係のある事は近頃の唱歌に優る事萬々である。(一月五日夜)
やや大きい額の中央に、ほんの形を現はすと云ふまでに鰹船の畫がかいてある。木の板の上へ、漆喰に混ぜた繪の具で厚くでこでこと盛り上げられて居る。船には二三十人の木偶《でく》の坊が紺色の繪の具で並列せしめられた。そしてそれらの人の中から十幾本かの釣竿が立つて居るのである。それが不器用な垂直線になつて並立してゐるが、その一つ一つの釣絲の先きに鰹がくつついて居る。船の舳の所に二つの白い鳥が浮いて居る。一群の鴎は、聲をも想像させる位に船の後ろに飛び亂れて居る。水平線は高い。そこには岩石から成る島があつて、島影から朝日が出懸けて居る所である。額の上部には大きく「奉納」と書いてある。明治四十一年寅季秋の奉獻に係るのである。
同じ構圖のがも一枚ある。それに小さい島の代りに水平線に盛に噴煙しつつある大島が畫かれて居た。で船の下の波の中には、何れも釣竿の先を目がけて集れる數十の鰹が浮いてゐるのである。
小さい山腹の神社の幕にも鰹の繪が染めてある。その間から日が出て居るのであるが、ちやうどそこの所が絞り上げられて居た。「海上安全」の文字と共に。
こんな原始的な漁村の藝術は、實際自分の眼が見たので無ければ面白くない。もしその郷土の地勢を見、産業を檢べ、其歴史を知る眼が見たならば、却つて異國の大藝術を見た時よりも、もつと懷かしい、感深き印象を得るに違ひないと思ふ。
小さい郷社を出て、隣接する寺の鐘樓の邊から眺望すると、南國の冬の海は一種の温味ある青色の表面を織り出して居る。海のあなたの岬には午前の淡い日影を受けた一部落の屋根が連つて居る。山腹の神社さえ見える。殊にそこに今日祭典があるのであるからして、幾竿かの幟が立つて居るのであるが、透明なる空氣を通して、その布の、乃至港の帆船の帆のはためきさへも耳に聞える許りによく見えるのである。正に是れ一種の「廣重情調」である。即ち視感を動かす繪畫的刺戟は直ちに海郷の傳説を聯想せしむる契點となるのである。前景としては、下つてゆく道の途中なる山門。大なる山櫻と柑子の木の群。四百年の松。及び眼下の海濱の赤き船の旗である。而して嚮に云ふ所の奉納の額は、かかる郷土を背景として鑑賞せねばならぬのである。
土地柄、日蓮や曾我兄弟を對照とした額も少くない。これは亦違ふ方角の街區の寺で見られた。祖師堂の壁を飾る多くの額の内では船乘彌三郎の事を畫いたのが尤も興味があつた。この郷の一角を名所圖會の鳥瞰景に見たものが、額面の右の上部の大半を占め、その岬の鼻は尚左半の大部分に延びて居る。船乘彌三郎は小さい傳馬船に乘つて、今しもぱつと投網を打つた所である。途端金光は赫灼として海底の金佛から起つた。――然し繪馬の畫工は、もつと著しく土地と云ふものの概念を現はさうと欲したらしかつた。即ち海上に烟を吐く所の大島を畫きそへたのである。而してまた岬邊の一小島をも畫き漏らさなかつた。且一個の圖案としての因襲的興味を尊重する此の無名の畫工は、更に水平線上の二個の帆影、海を昇る朝暉の赤き後光を添加するを以つて、多くの效果を收むるものと考へたに相違ない。
つまらない冥想を樂しんだあとで予等は寺の坂を下つた。それから小學校の庭でする消防出初式の稽古を見、冬の日の田圃の心持よい暖色を樂しみながら、午少し前の比《ころほ》ひ、かの祭典の催のある街區に入つたのである。
海郷の祭典が如何に愉快なる諧調を四圍の自然とそこの住民との間に造り出したかに就いては更に筆を新にして報告せねばならぬ。予は今は勞れて居る。これから一つ湯にはひらうと思ふ。
今日もさうであつたが、をととひの晝間は春のやうな風が此町を音づれた。庭の葡萄の枯葉、石菖、野芹などを眺めてゐると、陽炎で目が霞んだ。それから田圃へ出たら例の稻村が淡く日を受けて居た。その下の田の土の色、畔《くろ》の草の色――是等は他の季節に見る事の出來ない親《した》しみ、懷《なつ》かしみを藏してゐる。日本の油畫ではややふるくは久米氏の稻村の畫、山本森之助氏の山麓の農家の畫、それから一昨年かの白馬會の跡見泰氏の田圃の畫の外にはかう云ふ致《おもむき》を寫したのは見ない。早く Exoticomanie が過ぎてかういふ地方色をゑがいた畫が見たい。
これから温泉である。あの硫化水素の臭ひと温い液體の輕い壓力とは兎に角氣持がよい。人間をのらくら者にさせる丈の力は十分ある。今日、日沒の少し前、街道を歩いて温泉の一廓に出たらまた忽ちこの臭ひに襲はれたのであつた。田舍とは云ひながら、その賑かな街道に、煙草屋、下駄屋、小間物屋の間に共同の温泉場があつて、外から裸形の人影が覗かれるなどは、全く異郷の感じがする。道傍に立つ柳、石の道陸神、湯槽から出て川に流るる湯の匂ひ、冬の穩かなる日の微かなる風、また野邊の揚雲雀、藺の田に淀む脂などは正に蕪村の詩趣である。
かう云ふ土地に生れて、今の世は知らず、昔ののんきな時代の人が怠け者か道樂者にならないと云ふ筈はないのである。さう云ふ人々の逸話も亦ここ彼方《かしこ》の家庭に殘つてゐる。その人々の多くは小高い山腹の墓の下に眠つて居る。その家は或はなくなり、或は今に殘つて、其あとの人々を住まして居る。
Vedi Napoli e poi muori !(正月七日夕刻。)
で、祭の事を書かう。をととし君と一緒に見たあの祭だ。予は四年目に一度あるものと思つて居たら、さうではなくて隔年にあるのであつた。そんなら君にさう言つてやるのだつたのに。今年はもう慣れて居たから大して心を動かすやうな事は無かつた。一昨年《をととし》は、君には言はないで居たが、十幾年の間と云ふもの、全く忘れて居たいろいろの物を突然見せられたのだからして、すつかり少年
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