唄でも歌ひさうな男が、時々取つて付けたやうに「よい、チヨボ、チヨボ」などと呼んで居た。その内に色々の商家の名を染めた汚い幕が引かれる。するとどやどやと子供等が飛び出して幕の中へ首を突き込んで、引いて行く役者を見送るのである。
 不快になつて小屋を出て、暇乞にと縁者を訪ねた。そして偶然人一代前の世の話が出て面白かつた。其内容が餘りに特殊で、事に關與した人や、乃至それらの人の運命を知つた者でなければ興味がないから、報告する事は止める。唯然し君とてもかういふ想像はする事が出來るだらう。即ち東京からさう遠くない港へ、押送り、乃至珍らしい蒸氣船で、「窮理問答」「世界膝栗毛」「學問のすすめ」「倭國字西洋文庫」と云つたやうな本がはひつて、本棚の「當世女房氣質」「北雪美談」を驅逐し、英山等の華魁《おいらん》繪、豐國、國貞等の役者の似顏、國滿が吉原花盛の浮繪《うきゑ》などの卷物の尾《しり》に芳虎の『英吉利國』の畫、清親が「東京名所圖」其他「無類絶妙英國役館圖」「第一國立銀行五階造」の圖などが繼ぎ足され、獵虎帽の年寄りが太陽は無數に西の海底にたまり、地の下の大鯰が地震を起すなどといふ須彌山説《しゆみせんせ
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