んで云ひかけたが、友だちがそれに対して、あまり興味を持ってないのを見て、辰子の内心の力はちゞまってしまった。
 で何げなく、『きっといゝ先生に違ひないわ』と云った。
 辰子は、その先生が自分の兄と婚約のある人だといふ事を、人に云ってはならないと、家の人から云はれてゐた。それで彼女は、それ以上云ふことが出来ないで、疲れたやうに黙った。「なんにも、あなたには解らないのね。私のうれしいことなんか、一つもわからないのね。その人がいまに私の嫂さんに、なる人なんですって。そして、私は二三度その人を見たことがあるんだわ。名前は森本つた子、森本つた子」辰子は、そんな事を、口の中で繰りかへしてゐた。そして彼女の心のなかでは、どうしても、その人について、自分の知ってる、小さな、さま/″\の断片を誰れかに話したくてならなかった。
 二日ののち森本先生は、彼女だち生徒に紹介された。そして、うす黒い筒袖の着物を着て、引つめた束髪を結って三十すぎた片意地そうな、先生だちにのみ教へられた、彼女だちには、その若い先生がどんなに、物珍らしかったか知れなかった。前髪もゆるく、大きく出してゐた。着物も紫の袂《たもと》の長いのを着てゐた。若い彼女だちは、みな憧憬《どうけい》の瞳を輝かして、新らしい先生を見た。そして、自分だちの若い心がのびのびとその先生の心にとゞき、生長することが出来るだらうと期待した。彼女もまた、そう思った。しかしひそかに、森本先生が生徒だちに讃美されなかったら、どうしやうと、辰子は気づかった。そして、それから常に、その気づかいを持って、彼女は登校するやうになった。
 森本先生は、彼女の方の国語も、作文も受持った。そして、辰子は、その時間を、重苦しい、気遣はしさと、圧迫と、気恥かしさに暮らさねばならなかった。
 森本先生は、教へ方が下手だった。そしてまた他の先生だちに比して、知識も浅いやうに見えた。それで、一時間の授業は、混雑した。生徒だちは、わづかのうち、森本先生を軽蔑してしまった。そして、彼等の期待に反した反動として、時間毎に非難の声が高くなって行った。
 辰子は、耳をふさいでゐた。学校は、彼女に不安なかなしい所になった。彼女は、なるべく、友だちと学校の話しをするのでさへさけやうと思った。
 そのうちに、誰れからともなく、森本先生は、辰子の嫂さんになるといふ評判が、学校中に開がった。そして今まで辰子の前で森本先生の悪口を云った友だちも、驚いたやうにそれをさけた。辰子はそれからひそかに、只一人教室の出入りをした。そして、辰子がなにげなく、友だちの方に歩いて行く時、必ずそれ等の友だちの話しは中止されてゐた。
 辰子は、そういふ時、かなしみに堪へないで黙って引かへした。そして、誰れを恨んでいゝかわからなかった。勿論、森本先生を自分のかなしみに対して恨む気には、なれなかった。森本[#「森本」は底本では「森田」と誤植]先生は、けっして悪い人ではないと思ったからだ。
 けれども、彼女は森本先生が自分の方の、学校につとめた事を悲しんで、自分の方の学校にさへつとめなければ、うれしい時が過されたらうし、お友だちとも気がゝりなしに、親しんでゐられたに相違ない。
 彼女は、よく一人でかなしみながら、静かに廊下を歩いた。誰れかゞ言葉をかけたならその人にすっかり、すがってしまひたいやうな心で歩いた。そんな時、思ひがけなく森本先生に逢って、辰子は思はず赤い顔をした。そして微笑する間もなく、森本先生は黙ってゆき過ぎてしまふので、彼女は堪えがたく自分を哀れに思っては、そっと涙をふいたりした。
 けれども、彼女が一日学校に見えなかったりした時に、森本先生は、辰子の後から声をかけた。
『病気だったの、お家の人によろしくね。』
 彼女は、黙ってうつむいてお辞儀をした。そして自分を侮辱した。この頃時々「あまりいゝ人ぢゃない」。といふやうな、考へに捕へられたことを思出すからであった。
 けれども、彼女は非常にうれしかった。森本先生が一|言《こと》彼女に向って、言葉をかけたことによって、彼女は安心して、森本先生の優しさと善い人であるといふことを、信ずることが出来たからであった。彼女は、その時誰れかにその嬉しさを話したくってならなかった。けれどもその嬉しさを共有することの出来るものは、恐らく誰れもなかったであらう。
 辰子は、一年近い月日を、只一人心のなかに森本先生のことについて、気づかひ悲しみひそかによろこんで暮した。「早く早く、学校をよして、私の家に来て下されゝばいゝ。」それが、彼女の希望であった。
 森本先生は、一年たゝないうちに学校をよした。そして、まもなく彼女の家に来たけれども、親しむ間もなく彼女の兄と共に、南の方へ旅立った。
 辰子は、学校を出た。辰子の周囲は、ひろくなった。辰
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