後の三年ばかりの生活にすぎない。
彼女は、いつとなく何物にか気をとられたやうに、ぼんやりと遠くの方を見てゐた。彼女のその静かな心が、いつか幻のやうな絵を見てゐたのであった。
それは淡暗い光りのなかに、そしてその光りのやうに物静かな三人の人たちが、より合って頭をあつめてながい物語りをしてゐるのだった。その物語りは、あまりにながく絶えることなく彼等の間につゞけられてゐるやうであった。そしてその物語りのなかには、すべて世の中の善や悪や、かなしみや苦しみ怒りもなやみも、よろこびもすべてが語られてるやうだった。けれども話す人も聞く人も、たゞ静かに安らかにぢっと微笑《ほゝゑみ》をつゞけてゐるばかりであって、彼等は少しも動かなかった。首をかたむけて眼を伏せながら、そして、そこにはたゞ静かななつかしみと、許しとが彼等をつつんでゐるやうに見えた。そしてまたそこには深い/\安らかさが彼等のすべてに表はれてゐるのであった。
世の中の總ての事、人生は過去るであらう。そして過去った其日に初めて總てが、總ての事が懐しみと許しとに変る事だらう。そして其時彼等は永久に夜の様な安息の前にあるのであった。
遠い絵が暗く静かに、彼女の眼の底に映ってゐた。また瞳の底を通して遠く未来に、淋しい安らかさを持って、その絵が見えるのであった。若い彼女は一人で淋しいひそかな溜息をついた、そして、とり散らされたテーブルの上と、夫と子供の顔をちらと見ながら黙ってゐた。
『どうして黙ってるの。』男は、ふと不思議さうに女の顔を見て声をかけた。彼女は、あわてゝなにかを云はうとしたが、一口には何事も云ひかねて黙ってしまふと、再びその眼が遠く走ってしまった。そして彼女は、また幻の絵を見たのだった。彼女は、その時はじめて戸の外の嵐の音を、静かに耳にした。彼女はなにも云はずにゐた。
さうだ。あの日があるのだ。あのすべてがなつかしみと許しと、安らかさに変る日があるのだった。ながい生活の後に、またながい悲しみの後に、またながい苦しみのその後の日に、あの安らかななつかしみと許しの日があるのだ。一日々々の苦しみや悲しみがなんだらう。一日々々の疲れやなやみがなんだらう。彼女はいつとなしに微笑を浮べてゐた。
『なぜ黙ってるの。』男は再び声をかけた。彼女は驚いたやうに頭を上げて、なつかしさうに笑ひながら、
『まだ本当にわづかしか経ちませんのね、結婚してから。』
と男にも思出して、種々のことを、結婚前の楽しかったことまでも、思出して下さいと云ふやうに云った。
『さうだなァ。』男も眼を上げて云った。
『たった三年にしかならないんだな。けれども、俺たちはいろ/\苦労したなァ。』
『本当にね。』彼女は、また眼を伏せてあの絵を見ようとした。が、すぐに、
『けれども、まだ三年しか経たないんですものね。』と、なにか大きな、彼女にはわからないけれども、なにか大きな希《のぞ》みを彼に話さなければならないやうに瞳を輝かした。
『さうだ、一日々々いろ/\なことに疲らされなやまされ苦しまされても、二年はもう過ぎたんだからな。もうしばらくすると、坊やも歩るくやうになるんだから。』
男は、手持ぶさたのやうにスプーンを持って立ってる子供を見た。彼女は、すぐに嬉しさうに、
『坊や。』と大きな声を出した、子供はそれと同時に大きな叫声を上げて、母親の顔を見ながら、
『うま/\/\/\。』とスプーンをテーブルにたゝきつけた。
父親は、あわてゝ子供の口に御飯を入れてやった。
彼等は、やがて箸をおいた。
『もう少しの間だ。』男は強く独言のやうに云った。
『さうね、私たちは働きませうね。』彼女は、おちついて安らかに云った。そして子供を膝の上に抱きながら、小さな乳首をだして乳をのませ初めた。
『さ、あとを片づけよう。そして寝よう、明日は早く起きようぢゃないか。』
やがて、男は立ち上った。そしてテーブルを片づけ初めようとした時、もはや子供は乳房に頬をつけて眼を閉ぢてゐた。あたりは静まりかへった。
『嵐だな。』男は、立ちどまってさゝやいた。
[#地から2字上げ](『文章倶楽部』大6・2)
底本:「素木しづ作品集」札幌・北書房
1970(昭和45)年6月15日発行
底本の親本:「文章倶楽部」
1917(大正6)年2月号
入力:小林徹
校正:湯地光弘
1999年9月5日公開
2005年12月29日修正
青空文庫作成ファイル:
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