い様子を見つめた。そして、たまらなささうに、この子はどうしたといふんだらう、とふと口の中《うち》に独言を云ひながら、どうにも仕方がない程可愛いといふやうな様子で、『坊や、』と強く云ったけれども、笑《ゑみ》が顔からあふれて了って、彼女は助をかりるやうに男の顔を見た。そして三人は、すべての事を忘れてしまった様に、子供の為めに互にどうしようかといふ様に笑ひ合った。そして子供の為めに、彼等は暖かい賑かさと、其上に自然《ひとりで》に溢れる笑ひと嬉しさを持って食事にとりかゝったのであった。また彼等は、ごた/\した騒がしさの為に、雨風の音を耳にしない。
若い父親は、彼の赤く大きな片手を忙しくテーブルの上に拡げてゐた。そしてその眼は子供によって仕方がなく湧き出た笑《ゑみ》を堪《こら》へながら、子供をさゝへて、その小さな赤い口に僅の食物を入れてやった。そのすきに彼は、あわたゞしく大きな口を開けた、彼は彼自身の口のなかに御飯を押し込んだ。
母親は、壁によって黙ってうつむきながら藍色の深い鍋に煮た牛肉と玉葱と、人参とジャガ芋とを白い皿に盛ってゐた。そしてなにか云はうとして、甘く柔かく煮たジャガ芋を口のなかに入れて、男の顔を見たが、彼女はなにかに気がついたやうに、ふと口を閉ぢて茫然《ぼんやり》と遠い所を見た。
彼女の口のなかのジャガ芋が、丁度凍ったかのやうに固くざく/\してゐて、非常に不味かったのだった。彼女はふと驚いたやうに黙って前歯でかみなほしたが、彼女の心は、いつか淋しくうつむいてしまってゐた。
彼女は日々の苦しみや悲しみ疲れを思出したのであった。そしてジャガ芋の無味な、かゝはりのない冷やかな不味《まづ》さが、彼女に静かな淋しい遠くはなれた心を与へた。彼女は結婚後の貧しい悲しみにみちた現実の生活を思ひ浮べたのであった。
そして、それがあまりに永く引きつゞいた生活のやうにも思はれた。彼女はふと自分がすっかり老いてしまったかのやうに考へられた。そして静かに涙にみちた日のことや、物質の為めに脅かされ恐れてすごした日々や、病の為めに悲しみ苦しんだその日その日のことを遠い心が静かに思出してゐるのだった[#「ゐるのだった」は底本では「ゐのだった」]。けれどもいま思出してる彼女には、すべてが夢のやうであった。苦しみも悲しみもなつかしい夢のやうであった。
そして考へて見れば、わづかに結婚
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