。彼女はうれしかった。それから二人は、その日の事を書いては送った。看護婦の手を経て、歩く事の出来ない二人はなつかしい話しをした。
ある日曜日に、お葉は起き上る事を許された。彼女はその時きれいなダリヤの花を持って来て呉れた友だちの帰ったあとで、母親にたすけられて、床の上におき上った。少しの嬉しさも喜ばしさもなかった。足が電気のやうに渦をまき、円い玉のやうに一秒も停止してる事が出来なかったので、涙をためて、又床の上に横になった。そして前のやうに眼の上に空を見、胸の上にダリヤの花を置いて、一つ/\を手に持ってぢっと見た。そして彼女は起き上る事が出来ないと思ひつめながら、あを向けに母親の顔をうらむやうに見詰めてゐた。けれども、毎日一度は看護婦か母親によって起き上ることをさせられた。下から見た部屋を起き上ってたてから見たすべての異《かは》り方や、目の廻るやうな不思議さは、次第々々になくなって来た。そして開け放した扉《ドア》の前を通る人などを見る為めに、自分から起き上る事を母に頼むやうになった。
廊下を通る様々の人、それを起き上って見てるのが、どんなに物珍らしかったか解らない。そして、毎日唐人髷を結った下町の娘が小唄を口ずさみながら通るのが、どんなに彼女の心を引いたらう。
さうしてゐるうちに時がたって行くと、お葉は歩く事を稽古しなければならなかった。歩く稽古、歩くのでさへ稽古しなければならないとは、どうした事だかお葉には解らない。黒塗の丁字杖がベッドの前に置かれてからは、彼女は毎日恨むやうな瞳をすゑて、どことなしに見つめて居た。あれをついて私はどうして歩くんだらう。私が足を切断したなんて、お葉は、その事ばかり考へた。そして看護婦が来る度に、どうして手術をするかとたづねた。
『いえ、そんな事はおたづねにならない方がいゝんですわ。』
看護婦は、みな話さなかった。そしてお葉の手の美しい事、髪の毛の多いことなどを話して彼等は帰って行った。お葉は悲しくってならなかった。そして自分のはかない身の上を書いて、紫の女に送ったけれども、やはり淡《あは》いやさしいそして物たらない事しか、お葉には書いてよこさなかった。
『今日は。』彼女は毎日訊いた。
『えゝ手術日。』看護婦は、さう言って帰りに寄る事を約して出て行く。思はずも今日の手術の様子を話して、問はれたまゝに切断の事なども言ひかけようとするのであった。すると、側の一人は必ず、お葉が目を見はって、熱心に聞いてるのを見て、
『およしなさい。そんな事は、みんなみんな嘘なんです。』と言って止めた。けれども、彼女は、肉を切って、骨をのこぎり[#「のこぎり」に傍点]で引いて、皮を縫ひ合せて、と考へて見たけれども、どうしてもそれが人間の生きた肉体に行はれるものぢゃないと思った。
さうしてるうちに、お葉の歩くべき日が来た。
『さ、今日は少し歩く稽古をしませうね。』
けれども、彼女はどうしても恐ろしくって、ベッドの下に足を降すことが出来なかった。
『あ、草履を持って来ませうね、一寸《ちょいと》おまちなさい。』
看護婦が急いで行って、一足の紅緒《べにを》の草履を足元にそろへた。お葉は、慄へながら血気《ちのけ》のないやうな、白い死んだやうな片足をそっと降した。
『まあ、片方《かたっぽ》でよかったのに、私もよっぽど馬鹿な――。』
草履を持って来た看護婦が、その時大声で笑った。彼女は恐ろしさに慄へながら茫然とその女の顔を見た。その時、室内の日が急にかげって、すべてが淡暗く物悲しく見えた。どうして自分が床の上に立上るなんていふ事が出来よう。彼女の足は、ベッドから垂れて、ぶる/\とふるへてゐた。
『さ、私につかまって立ってごらんなさい。かうして、杖を両脇にはさんで、』
彼女は杖をしっかりつかんだ。そして立上ったけれども、看護婦のおさへた手が少しでもゆるむと、浮草のやうにくら/\と動いて、眼は夢のなかのやうに物事をはっきり見ることが出来なかった。
『さうして、一寸、一寸、飛ぶんですよ、しっかりつかまへて上げますからね。』
彼女は、さういふ看護婦を恐れた。飛ばなきゃならないと思ふけれども、どうして足を浮かしていゝものやら、彼女は足の運び方を、すっかり忘れてゐた。そして、やうやくはっと飛んだと思った時には、わづか彼女の足元は一寸《いっすん》位しか動いてゐなかった。
お葉は、床の上に丁字杖を持ったまゝ天地に頼りないものゝやうに涙ぐんだ。歩くといふ事が、これ丈悲しい恐ろしい頼りないものとは思はなかった。ベッドの上に、早くベッドの上に自分の身体を毛布のなかにつゝんでしまひたい。看護婦は、彼女をひきずるやうにして、漸く窓ぶちにつれて行った。わづか一間《いっけん》、それがお葉には海山の隔りのやうにも思へた。初めて窓から空を見た時
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