た。そして、其中に良人を見ることが、寂しくもありまた誇りでもあった。そしてまた秋になれば、彼女はいつも画家である良人の為めに心が動くのであった。
彼も画家の一人であるならば、秋毎のサロンに一枚の小さな絵でも陳列されるやうに願ったけれども、彼の絵は二度とも落選した。
朝子は、それを最初良人の絵の価値にかゝはるやうに思ったけれども、今ではそんな事を少しも思はなかった。只、良人が少しでも多く絵を描くことが出来るのをうれしく思った。
朝子が、そんな事を思ひながら俥からおりて、廊下はづれにある時子の病室の方を気にしながら、長い廊下を通って、時子の病室をそっと覗くと、起き上ってた時子は、すぐに草履の音を耳にして、黒い大きな瞳《め》を彼女の方に向けた。そしてまだ元気のない笑ひを浮べながら、何かを願ふやうに、
『母ちゃん。』とあまり高くない声で呼んだ。
[#一字下げ忘れか?207−4]あさ黒い顔をしてゐる時子が、赤い袷を着せられて、相変らず細い首を出してゐる。
朝子は、ベッドの上に半分のるやうにして、時子のほっそりした小さな頬に顔をすりつけた、そして、
『あゝ母ぁさんに抱っこして、お家に帰るんですよ。時ちゃんのお家《うち》に帰るんですよ。』と云った。
看護婦の杉本さんは、なにか洗物でもしてゐたと見えて、裾をからげて入って来ると、
『さゝお家に帰るんですわね、お母さんに抱っこして。』と、朝子とおなじやうなことを、笑ひながら云った。けれど時子には、そんな事はどうでもよかった。そしてまたわからなかった。恐ろしい疫痢の為めにしばらくの間牛乳とおも[#「おも」に傍点]湯の少量より食べることが出来なかったので、少し身体の快復して来たいまは、只、人の顔さへ見れば記憶にのこってゐる、パンとバナナとを欲してゐるのであった。
杉本さんが、時子の熱臭いやうな一種の妙な臭のする、小さな垢じみた身体を、金盥に持って来た熱いお湯でふき初めると、朝子はつく/″\と我子のやせてあさ黒い、あかの浮いてる身体を見つめた。時子は身体をふかれながら、うま[#「うま」に傍点]/\が欲しいと云って、泣き出した。大きい声で力一ぱい泣き出した。
朝子は、黙ってそのはげしい泣き声を耳にしながら、何にも云はうとしなかった。彼女はなんとも云ふ必要のないほど、子供の泣き声を快よく聞いたのであった。そして、黒い小さな顔一ぱいが、涙によごれてゐるのを、限りなくなつかしく、何も云はずにぢっと眺めた。
時子が泣いてゐる。といふ事が、なんとも知れない自然の喜びとなって、彼女の心に湧き上って来るのであった。時子が泣いて、そしてまた元のやうに、家に帰って来るのだと思ふと、朝子は急に、時子の涙によごれた頬に顔をすりつけて、何も云はずに杉本さんの顔を見て笑った。
『お泣きになるんぢゃ、御座いませんたら。』
杉本さんは、さっきから子供が泣くので、どうしようかと云ふやうに、同じことを繰りかへしながら苦笑してゐる。朝子は、なんとなく杉本さんの顔を見ると、気の毒でならなかった。
彼女は、泣いてる時子の身体をふき終ると黙って、彼女が子供の退院までに、縫って調へた新らしい襦袢と着物とを着せ初めた。そして、夏に刈ったばかりのまだ延びない頭のくしゃくしゃ[#「くしゃくしゃ」に傍点]した短い髪の毛を、横の方にときつけた。時子はいつの間にか泣きやんで、小さくすゝり上げてゐる。
新らしい友禅の着物は、色の黒いやせて不機嫌さうな顔をした子供に、少しも似合はなかった。併し朝子は、着物をきせ終ると、時子が杉本さんに抱かれるのを、嬉しさうに見た。そして持って帰らなければならないものを、まとめて風呂敷につゝむと、彼女は夢中になって、先に出た杉本さんのあとを追って病室をふりかへりもせずに、廊下に出た。そして顔見知りの看護婦や人々に頭を下げた。俥にのると朝子はあわてたやうに両手をのばして、杉本さんの手から時子を胸に取って抱いた。そして俥が走り出すと同時に、強く抱きしめた。時子は赤くなって苦しさうに、身体を動かした。朝子はそれが何となく嬉しかった。彼女はやがて子供を安らかに抱いて、時子に電車や通る人を見せるやうにした。
俥が朝子の家の近くに来た時、良人にはやく時子が来たことを、知らせてやりたいと彼女は考へた。そして首をのばして家の二階の欄干《てすり》の所を見たが、誰れも見えなかった。朝子は、なんとなく寂しい心持がした。誰か知った人にでも、誰れでも顔見知りの人に逢って、笑ひたいやうな気がした。すると繁吉はいつの間にか、家の前の門の所に立って、両手を上げながら、此方を見て笑ひながら、何か云ってゐる。朝子は、急に笑ひながら、時子の顔をのぞき込んで云った。
『父さんが、ほら時ちゃんの父さんが、あすこに見えるでせう。さあもう時ちゃんのお家に帰って来たんですよ。』
繁吉は、家に入るや否や、時子を抱きしめて、家の中を廻り歩いたが、彼はふと気がついたやうに、大きな手を子供の額にあてゝ見て、また自分の脣を子供の額に押しつけると、
『大丈夫だ。』と、独り言をいって、二階に上って行った。
彼は忙しかった。急に時子の蒲団を敷いたり、おしめ[#「おしめ」に傍点]を調へたり、部屋の温度を見たりしなければならなかった。繁吉は、絵筆をしまって、画架をかたよせた。
朝子は、家に入るや否や、時子を良人にとられてしまふと、そのまゝそこに坐ってしまった。すると彼女の瞳は、ぼうと物倦くかすんで来た。そして動かすことが出来なかった。それは急に天気が曇って来たせゐか、冷え/″\した空気が流れこんで来て、彼女は悪寒《さむけ》がして顔色が悪くなった。
朝子は、繁吉に呼ばれたけれども、立ち上って二階に行くことが出来なかった。
繁吉は、時子を横にすると、其側に朝子の床を敷いて朝子を寝させた。朝子は横になって、時子がしきりに不機嫌にむづかって泣いてる顔を、うと[#「うと」に傍点]/\と細目に見ながら、何か云はう、何か云はなければならないと思ひながら、彼女は苦しさうに身動きもせず、そのまゝ深い眠りに落ちてしまった。
繁吉は、時子を寝させようとして、片手で布団を叩き、子守唄をうたひ出した。そしてまた片手で朝子のだるいといふ背中をなでゝさすってやった。時子は、やがてよごれた顔をして、うと[#「うと」に傍点]/\と眠った。
[#一字下げ忘れか?211−6]彼は、急に仕事が忙しくなった。時子の牛乳の時間も見なければならなかったし、おもゆ[#「おもゆ」に傍点]の加減も見なければならなかった。彼は漸く階下《した》に降りて、自分の部屋に入ったけれども、落ちついてぢっと椅子に腰をおろしてゐるわけにも、描きかけの絵を見てゐることも出来なかった。彼は、今二階に寝させて来た許《ばかり》の病身の妻と、病気上りの痩せて浅黒い小さな我子の上に、少しの間でも気をゆるすことが出来なかった。子供が起きやしないか、朝子が呼びはしないかと、彼は腰をおろしても、二階の方にばかり気がとられてゐた。
しかし彼は気をとられながら、絵筆を持った。彼の心はやはり秋だと思ふと動いた。そして彼の絵を賞賛する友や知人が、彼を訪ねておなじやうに、彼に秋のサロンへの出品を勧めた。朝子は二階の床《とこ》のなかで、やがて眼さめた時は、黄昏近い空にかわききったやうな木の葉をつけた、すゞかけの木がたゞ一つ彼女の眼に入った。彼女は耳をすました、けれども階下《した》からは、何の音も聞えて来なかった。彼女は時子の涙によごれた小さな黒い寝顔を見つめた。そして考へたことは、彼女にとって堪へがたく寂しいことであった。朝子は良人を呼んだ。繁吉はすぐ静かに上って来て、
『呼んだかい。』と聞いた。彼女はうなづいたけれども、何にも云ふことが出来なかった。
(『新潮』大正7・3)
底本:「素木しづ作品集(山田昭夫編)」札幌・北書房
1970(昭和45)年6月15日発行
初出:「新潮」大正7年3月号
入力:小林徹
校正:湯地光弘
1999年9月5日公開
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